SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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1971会計年度陸軍省年度毎史要約
出典 CMH
原題Department of the Army Historical Summary: FY 1971
表題 1971会計年度陸軍省年度毎史要約

I.序論

1971会計年度においてベトナムでの戦闘作戦は著しく減少し、米国人の損害は5年間で最低となり、ベトナム化は進展し、大規模な撤退が進行中であり、総員数は平時の水準へと下がりつつあり、新たな陸軍に対する課題が、次元として現れ出している。陸軍はいかにして、支持されなかった戦争のあとで、反軍感情と社会的動揺に直面しつつ、削減された員数と予算で、徴兵に頼らずに、現在及び将来の役割と任務にかなう強力で自立した練度の高い地上戦力を維持できるだろうか。

状況と展望が険しいものであることは多くの点で明らかである。ベトナムにおいて戦闘から維持および支援任務への次第のはっきりとした撤退と同時に戦闘地帯から多数の人員及び部隊を再配置するということが大きな要素である。

戦闘損害も前年の水準から著しく低下した。12月間で2135名の兵士が戦死、15488名が負傷した。1970年においてはそれぞれ4672名と34826名であった。負傷者の過半数である7789名は入院を必要とせずに任務に復帰した。戦争による陸軍の総損害は1961年1月1日から1971年6月30日までで、30173名が戦死し199142名が負傷した。この他年度末までで275名が行動中に行方不明となり、うち62名は捕虜となったことが確認されている。

ベトナムにおける合州国陸軍主要部隊戦力は年間で3個と2/3個師団相当戦力が削減されて、年度末において2個と1/3個相当を残すのみとなった。戦時の頂点からは6個師団戦力削減したこととなる。1971年六月30日においてベトナムに残る米国兵士は20万名を下回り、戦時の最高からはおよそ16万2千名下回っている。

これに応じて合州国陸軍の総員数も低下して、1968年6月に達した戦時の頂点の157万名から1971年6月30日には112万4千名の水準となった。削減員数は3年超の期間でおよそ44万6千名である。

来る年も陸軍はベトナムから部隊を再配置し、総員数を削減し、装備と人員を再分配し、世界の他のところでの関与に応じ、徴兵ゼロへと向かいつつ承認された戦力を維持する。志願軍への移行は当然問題を生じさせ、昨年には関心をますますひきつけた。

全志願合州国陸軍という構想、それを維持する米国の能力および意向には多くの考慮すべき点がある。

(訳注 画像省略 注記のみ訳す)
Stanley R. Resor閣下
陸軍省長官
1965年7月から1971年7月
(訳注 終わり)

憲法を形作った政治家は平時における大常備軍に反対する民主主義哲学を提起し、緊急事態において国家戦争を戦うために軍旗に招集される市民兵士という軍事政策へと路線を定めた。この原理は20世紀の半ばまでうまくはたらいた。そのとき合州国は第2次世界大戦から主要な世界大国として現れ、復員させて小規模な職業陸軍へと戻ることはもはやできなくなっていた。適切な備えには今や市民の自発的勤務以上の水準での平時軍事力が必要とされており、1948年に国家は平時徴兵に切り替えた。

合州国は世紀の80年代へと向かいつつあり、市民の大半は30歳以下であり、徴兵はその人生の期間を通じて運用されており、通常の状態とみなしている。が、限定招集や選択的資格と猶予、そして被徴兵者がベトナム戦争に大きく関与していることと、自由な人々の間での強制的軍務に対する反対(とりわけ平時においてあるいは、限定的なまたは宣戦布告していない戦争という条件において)によって、徴兵に疑問が向けられより受け入れられる手続きを作ろうという広範な公的および私的な関心が喚起された。

こうして、1969年3月29日、合州国大統領は全志願軍に関する委員会を作り、前国防長官Thomas S. Gates, Jr.が委員長となって「徴兵を廃止して全志願軍へ進むための包括的計画を作成する”こととなった。1970年2月20日の報告書で、委員会は全員一致で 「国益には、効ある待機徴兵に支援を受けた全志願軍が志願者と被徴兵者の混合軍より適う」と合意した。

(訳注 画像あり 注記のみ)
Robert F. Froehlke閣下
陸軍省長官
1971年7月任命
(訳注 終わり)

2ヵ月後、1970年4月23日、大統領は第91期議会への教書で国が、より平等に徴兵制度を改革しつつ、「徴兵制を終わらせてその代替として全志願軍へ移行を始める」ことを提案した。議会は両方の分野において、大きなところでは徴兵適性の籤制度と軍務につく者への手当ての大幅割増でこたえた。

総司令官の志願軍への移行するようにという指示と国防長官の徴兵ゼロ期限である1973年7月1日に向けて、陸軍は新たな基礎へと向かう広範な取り組みを立ち上げた。取り組みは職業意識を向上させ維持させ、軍人によりより生活をもたらし、国家に仕える男女に対する社会的賞賛を喚起することを狙っている。基本となるのは陸軍は規律があり、高い士気を持ち、徹底的な職業意識を持つということである。これらの条件はけして達成不可能ではない。今日軍が面している問題とここれからに横たわる難事にもかかわらず、陸軍は達成してきたという誇らしい記録があり、これを保ち続ける献身的で有能な職業人が豊富である。

ベトナム戦争の終結が視界に入り、広範な平時の調整と将来の活動が形を取りつつあり、現職の陸軍省長官であるStanley R. Resorは6年間の陸軍の宰務を1971年6月30日に終えて、手綱を後継者に渡した。Robert F. Froehlke管理担当国防長官補が1971年7月1日に陸軍省長官となった。

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1970会計年度陸軍省年度史 要約
出典 CMH
原題Department of the Army Historical Summary: FY 1970

I.序論

ベトナム戦争は昨年中も国家的かつ軍事的に大きな関心事であり続けたが、紛争の方向には著しい変更があり、合州国にとっても米軍にとっても希望となった。1965年から1968年の軍事力および戦闘関与の着実な拡大に続いて、1969年には総じて安定化が起こり、1970会計年度においては逆方向への大きな動きが始まった。これは陸軍全体としての戦力、師団編制、部隊展開、戦闘作戦、戦闘損害において削減、減少が生じている。

1970年6月末の陸軍人員数は1322548名、1968年6月に到達した157万名から24万8千名下回っている。人員総数の削減が可能となったのは、ベトナムからの米軍11万5千名、うち5万9千名は陸軍、がゆえである。これにより1970年6月において戦闘地帯に残されている陸軍人員は1969年6月には36万1千名であったのに比べて30万名を少し上回るものとなった。

二度にわけてベトナムから撤退したのは、第1歩兵師団全部、第9歩兵師団の2個旅団、第4歩兵師団第3旅団、第82空挺師団第3旅団である。この削減は2個と1/3個師団相当であり、ベトナムには6個師団が残ることとなった。閉隊(inactivation)と復員(demobilization)、目立つところでは第24歩兵師団の閉隊及び復員により、現役陸軍師団構成は19個と2/3個から、17個と1/3個へと年度末には削減された。

撤退の初動は一連の出来事により正当である。ベトコンと北ベトナム軍に漸増的に大きく損害を与えた長期にわたる捜索及び撃滅作戦に続いて、米軍、ベトナム共和国軍、Free World Military Assistance forcesは南ベトナム中で大部分主導を保持した。侵透経路は定期的に遮断された。敵の補給基盤は次第に位置を発見され、食料、装備、武器の大貯蔵が鹵獲され破壊された。同時に安定化活動は拡大され、敵の人民に対する地歩を弱め、サイゴン政府への大衆の支持を強化した。さらには、1970年5月と6月における隣国カンボジアにおける敵聖域への大作戦により、敵が南ベトナムで作戦を遂行する能力は深刻な影響を受けた。

戦争のベトナム化が米国政策の中心的課題であり年を通じての米国の努力の焦点となった。ベトナム共和国軍の装備と訓練という大任務が進展するにつれて、現地戦力がより戦闘で大きな役割を引き受け始め、一方米軍は関心を編合と次第に撤退へとますます向けるようになった。

1965年夏から1969年夏までの東南アジアにおける部隊展開の加速と戦闘の拡大により合州国の損害は着実に増加した。月計で、例えば1968年2月には兵1363名が死亡し、同年3月には8298名が負傷した。各軍間では陸軍の損害が最大であった。

1970年会計年度までには、一方において、敵も激しい損害を受けており、戦闘の程度は落ち、部隊撤退は進行中であり、ベトナム共和国軍がますます戦場の責務を引き受けつつある。カンボジアでの作戦にもかかわらず、米軍の損害は大きく減少した。全軍種の週間損害は3年で最も低く、米軍の損害がベトナム共和国軍の損害を下回ったのは初めでである。1970年6月30日までで、戦争の全期間を通じた合州国の戦死した兵士数は4万3千名で8名の将官が含まれる。行動中の負傷は28万5千名であり、およそ半分は入院が必要であった。9年半の軍事関与で陸軍の総損害は戦死28011名、負傷183760名である。

戦争での必要に加えて、陸軍は米国の集団安全保障への寄与の一環として世界の他の地域に大戦力を供し続けている。韓国には2個師団、欧州には4個と1/3個師団が残っている。特定の任務の部隊がベルリン、運河地帯、ハワイ、アラスカ、沖縄に位置し続けている。残る現役陸軍師団は予備役部隊の増強を得て、合州国大陸において戦略予備を形成している。

ベトナムの状況が次第に安定し部隊をある程度撤退させたことで人員の不均衡はとりわけ下級指揮官と特技兵については緩和されたものの、被徴兵者の2年間の勤務義務とベトナムおよび韓国への短期勤務は人的資源上で問題である。これらの困難はベトナムで本格的な戦力削減が可能となり、短期勤務の需要が長期勤務の交代基盤と全体として釣り合う様になるまで恐らくは続くであろう。それまでは、個人配置延長、短期勤務短縮、自発延長及び非自発ベトナム再度勤務、下級将校および下士官の昇進加速の組み合わせにより需要に応じることとなる。

陸軍は1970会計年度での活動に300億ドルを要求した。国防長官官房と予算局の検討後、大統領は260億ドルに僅かに満たない額で要求した。議会は225億ドルに下回る額を支出することとした。ベトナムで下降する方向へ転換したことと、国内の必要により、陸軍は減少した資源で責任を果たす事が求められている。拠出の減少とインフレにより、資源の管理は重要となった。

国内の社会不穏という全体的な情勢は、国内の病巣と支持されぬ戦争により悪化し、1970会計年度における軍にも影響が及び作用した。問題は内部にも外部にもあり、広範な反対活動(dissent)があった。外部では徴兵に対する反対、軍務忌避、募集活動への干渉、大学構内のROTC棟破壊に明らかであり、内部では地下活動、人種間敵対、上官への反抗、脱走という形をとった。

無責任な反対活動は比較的少数の市民と兵士に限られている。米国民の多数は、戦争や社会正義に対する個人感情はどうであれ、市民や奉仕の責任を果たし、見解を広めるにあたってはシステムの中で、確立されている方法や手続きにより行っている。国家安全保障のため規律ある効果的な戦力を供するという基本的要求に留意して、陸軍は責任ある反対活動に対しては方針、手続き、規定に修正をして対応した。

厳格な倫理規定にもかかわらず、陸軍は社会の産物であり、戦場の内外において人間の弱みと失敗を抱えている。最近の悪行はかなりの程度のものであり、広く周知され、昨年中本格的な捜査が行われた。中でも著しかったのはベトナムのSon My(My Lai)における戦場での不法行為の嫌疑や各地の軍人クラブにおける管理怠慢であった。これらの事件は残念であったが、僅か少数の者が関与しているだけであり、戦場、国内、世界の各地にいる大多数の米国兵の精勤が台無しにされることはなかった。

20世紀の70年代における陸軍の任務はその誕生のとき以来全く変わっていない。合州国の国家安全保障を確実とする軍事力のうち地上部隊を供することである。1970会計年度においてこの任務がどのように達成されたのかその一端を以降の頁で扱っていく。
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