SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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2-4 Cav 砂漠の嵐作戦における師団偵察大隊
出典:Combined Arms Research Library
Command & General Staff College Fort Leavenworth, Kansas

第4騎兵連隊第2大隊任務部隊
「先駆けにして、しんがり」
砂漠の嵐作戦における第4騎兵連隊第2大隊の歴史
筆者 Joseph C. Barto Ⅲ

序言

極度に抽象的な立場から個人に密着した立場まで様々な観点から戦争は研究されてきた。Joseph C. Barto Ⅲ少佐の「2-4騎兵任務部隊 “さきがけにして、しんがり”:砂漠の嵐作戦における第4騎兵連隊第2大隊の歴史」の場合、急変する流動的な戦闘についてのある者の所感という観点から戦争を見ている。

砂漠の嵐作戦での自身の経験をノートの書き込みの寄せ集め、広範な記録類、その他様々な資料から再現することで、BartoはTF2-4Cavの物語を語る。大隊副長と戦術作戦センター統括将校という立場から、大隊が砂漠をイラク軍を追って進撃する、その計画と実施を描いている。

その結果、Bartoの記述は迅速に展開する作戦における個人の経験についての独自の見方を伝えるものとなった。Bartoの経験は洗練された分析よりは軍事史の学徒に、動的でしばしば不明確な戦場における騎兵大隊の作戦について内部からの観点を与えんとしたものである。

1993年6月
Combat Studies Institue所長
Richard M. Swain大佐、砲兵


CSIの刊行物は軍事史の様々な分野にまたがります。このCSI刊行物で表明された見解は著者のものであり、必ずしも陸軍省や国防総省のものではない。


議会図書館書誌データ
著者 Barto, Joseph C.(Joseph Charles) 1955-
任務部隊2-4Cav—“先駆けにして、しんがり“:砂漠の嵐作戦における第4騎兵連隊第2大隊の歴史/ Joseph C. Barto Ⅲによる
参考文献を含む
1合州国陸軍 歩兵師団(機械化) 第24 – 歴史‐20世紀
2 1991年の湾岸戦争、連隊史-合州国 
3 合州国陸軍-歴史-1991年の湾岸戦争
DS79.724.U6B37 1993 93-16451
956.704'4242-dc20 CIP

目次

図一覧
表一覧

序言
謝辞

I. 序
II. 序曲:展開と砂漠の盾作戦
III. 戦争への移行
IV. 戦闘に向けての編制
V. 戦争におけるTF 2-4 Cav
VI. 偵察と警戒任務
VII. 攻撃準備
VIII. 戦闘の遂行
IX. 作戦要約
X. 結論

付録
A. 語彙一覧
B. 第24歩兵師団(機械化)における主な人物




図一覧

1.任務部隊の行軍隊形
2. 側衛隊形

地図
1. 第Ⅰ段階::偵察及び警戒活動
2. 第II段階
3. 第III段階
4. 第IV段階
5. 第V段階
6. 攻撃前の状況
7. 地上戦闘開始日における出撃線
8. 段階線Lionへの攻撃
9. 目標Brown、Grey、Redへの攻撃
10. ユーフラテス川渓谷への攻撃
11. タリル航空基地およびJalibah航空基地への攻撃
12. バスラへ向けての攻撃
13. ルメイラの戦い
14. 砂漠の盾および砂漠の嵐作戦における第24歩兵師団(機械化)の作戦概観

表一覧

1. 偵察及び警戒活動におけるTF 2-4 Cavの編制
2. 偵察及び警戒活動会合における議題
3. 戦闘作戦におけるTF 2-4 Cavの任務編成
4. TF 2-4 Cavの作戦計画
5. TF 2-4 Cavが破壊した装備及び資材




本書に記した事実やその細部の大部分は砂漠の嵐作戦中に自身で観察したことを纏めたものである。出来事が起きた時点で記録をとっており、著しい事件のあとでは数度書き改めている。私の戦闘配置は大隊副長および戦術作戦センター統括だったので、1991年2月2日午前に戦術作戦センターに到着した瞬間から1991年3月23日に大隊がフォートスチュアートに帰還するまで、任務部隊のあらゆる計画と遂行に直接関与していた。
副長として、私は師団計画会合の全てに大隊長とともに出席し、詳しくノートをとり、これを原資料として用いている。停戦直後、数時間を掛けてノートを検分して、当時鮮明であった記憶、任務部隊TOC(戦術作戦センター)で起きたそのままの出来事、任務部隊に配属された各中隊から送られたそのままの詳細報告、TOCと上級司令部との交信を記した。又、1991年3月5日に任務部隊はイラクのバスラの西40kmに位置した任務部隊TOCにて事後直後検討会を行っており、私は主席書記を勤めた。既に合州国に帰還していたS3を除く任務部隊の全指揮官がこの会に参加した。つまり、指揮群、指揮官、参謀が出席して事象、戦術、戦技、手続きの突っ込んだ議論が行われた。

航空騎兵中隊の作戦については本作では実際に任務部隊の作戦統制下にあったときを除いて取り上げない。航空騎兵は辛い地道な仕事を果たしたのだが、筆者は直接その活動に関与しなかったので直接の知識がないゆえである。そこで、師団の成功に対する彼らの大なる貢献と彼らの戦果については意図的に本作に含めないことにした。

南西アジアからの帰還後、史書を読んで気付いたことは、戦争についての師団と様々な旅団の記述によって時間と事件に違いがあることだった。調査して少々の常識を働かせることで、分かったことは25000名の師団戦闘団では皆が同時に同じ事をしているわけではないということだった。また、任務部隊は師団司令部と統制結節と常に連絡が取れるわけではなかったので、師団が命令を発してから数時間後に任務部隊が受領することも時折生じた。これがいわゆる「戦争の霧」の例である。

任務部隊に配属されるまで、私は師団主指揮所の当直将校でG3作戦長だった。主な職責は師団の部分命令を書き、師団長状況報告を起草し、毎晩の師団長報告で師団指揮群に説明することだった。これらの任務では師団全体の全ての活動について直接の知識が必要であった。それゆえTF 2-4Cavの活動と作戦現況についても1990年8月7日の警急から1991年2月2日に任務部隊TOC(戦術作戦センター)に到着するまでの間もなじんでいた。

明白なことであるが、私は作戦の全てについて知っているべくもない。そこで、昨年のうちに、任務部隊の主な人々に(彼らの多くは本作の草稿を何版か読んでいる)にインタビ尋ねた。彼らの批評と知見は感謝を込めてしかるべきところに含めた。告白するのはインタビューの多くは正式な類いのものでなく、フォートスチュアートの訓練場で営地のストーブとMRE(携行食)を囲んで古くからの戦友が戦時の諸々の出来事を振り返っている際にしたことだった。私が心がけたのは作戦の主な出来事の現場にいた者を見つけてインタビューすることだった。また、Jason K. Kamiya少佐の著「砂漠の嵐作戦における第24機械化歩兵師団戦闘団の歴史」を参考とした。私は任務部隊に関する師団作戦の確認に彼の著を大いに用いている。

本作中の事実と主張の全てに同意しかねる方も居られるかもしれないが、私は本作とKamiya少佐の著を混同しないよう気をつけた。本作に含まれる全ては私の知る限り真実である。これから詳述する砂漠の嵐作戦で起きたことは私の体験した現実であり、私が直接その中にいたのである。

本作を仕上げるにあたり、戦友の訂正と貢献が大きかったことを感謝しなかったらば、怠慢であろう。私は常にTom Leney中佐、Lou Gelling少佐、Pete Utley大尉、Jean Soucy先任曹長に事実を確認するため厄介となり、彼らはいつも時間を割いてくれた。Brian Hann中尉は本作の図表の作成に素晴らしい腕を振るってくれた。本作を書く際に手助けしてくれた方の名前はとても長い表であるが、書き記すにはあまりに多すぎるので、試みないでおくことにする。

私がこれまで成し遂げた最も困難な任務はTOC配属の45名の前に1991年2月23日立ち
任務を達成することは可能であり、達成して堂々と生きて帰還できるという自信と理解を伝えたことである。私は個人としてとりわけこれらの優れた若者に対して地上戦闘の間、責任があり、この厳粛な責任の重みを感じていた。我々はごく短期間を共にしただけだったが、兄弟となり、私の体験全ては彼らに負っている。あの記念すべき日、私は彼らに再度計画全体を説明し話をこう締め括った、「諸君に求めることは10日間の完璧な軍務であり、そうすれば我々は全てうまくいく。」彼らは実行し我々はうまくいった。我々は散り散りとなっているが、我々は戦争という特別の紐帯によりいつも繋がっている。そのうちにとりわけ感謝せねばならない4名がいる。掌軍曹(P)Bernard Cabrerra、二等軍曹James Gill、特技兵George “将軍”Jenkins、そして私の運転手にして戦闘時の相棒である特技兵Raymond Greenである。

(訳注:不明部分の原文 P. Bernard Cabrerraと表記されておらず、(P)なので人名の一部とは
思えない。)
(Master Sergeant(P) Bernard Cabrerra, Staff Sergeant James Gill, Specialist George "The General" Jenkins, and my driver and battle buddy, Specialist Raymond Green.)


謝辞

愛と恐怖は人の最も激しい感情のうちの二つである。砂漠の盾と砂漠の嵐作戦中、私は恐怖は大抵その状況認識に直接比例することを学んだ。妻、家族、友人、そして兵に対する愛ははっきりと異なるけどもしばしば同じくらい激しいものだった。

砂漠の嵐作戦中、恐怖を感じたことは無かった。敵と味方の状況が分かっていたり、怯えるほどには良く分かっていなかったり、気を回すには疲れすぎていたり忙しすぎたためである。軍人の家族は、数千マイルと未知に隔てられ、生の恐怖を分かっていた。そして彼らは恐怖を毎日見つめていたのである。彼らこそ砂漠の嵐作戦における真の英雄である。私の妻Triciaと三人の息子であるJoey、Tommy、Kevinは愛と恐怖が常に心と魂を揺り動かす中での日常生活という本当に信じられぬほどの重荷を負って生き延びたのである。Triciaと私は、我々の人生において最も激しく感情の動いたとき、愛と恐怖を同情と教官で分け合ってくれた類稀な家族と友人に特別な感謝をすべきである。1990年のクリスマスの前夜に、3日間のうちに27回とりこなわれたミサの一つが第24歩兵師団(機械化)の主指揮所であり、カソリック司祭が述べた。彼のクリスマスの言は短かった。彼は我々にこれまでの5年間のクリスマスを思い出すように求めた。誰が居たか。何が起きたか。どんな贈り物をあげたりもらったりしたか。これらのうつろいやすい細部を求めて心の奥を必死に探るうちに、かれが優しく諭したのは我々の感じたホームシックと同じくらい、このクリスマスはあらゆる細部に至るまで思い出されるだろうということであった。彼は最後にクリスマスは新たな始まりをも現すと締め括った。私の人生は、サウジアラビアの防衛とクウェートの解放という出来事に区分される二つの異なる時期に常に区分される。私の新たな始まりは1991年3月23日、2歳の息子Kevinが群集を抜け、憲兵を避けつつ、私の腕に飛び込んできたときに始まる。

しかし、本作は私についてのものではない。本作は任務部隊2-4騎兵の兵についての、彼らのためのものである。私の個人的記述は特別なものでも、値するものでもないが、単に召集に応じ、仕え、恐怖を克服し、義務を英雄的なおかつ奇妙にも淡々としたやり方で果たすことで武器持つ職の高貴な戦士の掟を称揚した兵らの思い、感情、経験を代表するに過ぎない。任務部隊2-4騎兵は3月14日にイラクを去り、1993年3月22日国へ帰る航空機に乗り込んだ。続いての戦闘後活動の混乱、再編、休暇、パレード、全体の幸福感の中で、砂漠の嵐作戦での出来事は薄れ始めたり、それぞれの形を取り始めたりした。本作業は砂漠の嵐作戦への我々の参加を取り巻く事実を単純に記録することから始まった。その単純な過程のどこかで、大部分はSam Lewis博士、Dan Bolger少佐、Joe Martz少佐の励ましにより、本著は単なる記録を超えて、叙事詩となった。記憶が薄れ、家族、友人、兵らが1991年の早くにサウジアラビアとイラクで何が起きたのかを知りたがったり、思い出したがったりするにつれ私の思いは高まった。この叙事詩は主として彼らのために記されている。


戦争は激しい感情をおこす出来事である。指揮する者と指揮を受ける者との間には信頼、自信、愛による特別の紐帯がある。それは特別な愛であり、書き表すのは難しいが見分けるのは容易い。彼らと会いその眼の中に、彼らが何をしてきたのかを語る声の中に聞くことができる。

私は彼らの兄弟の一員であり、彼らの物語を語る栄誉を与えられたことを誉れとする。本叙述を愛と恐怖を分かち合った皆に捧げる。


I. 序論

1991年3月23日の良く晴れた春の日、ジョージア州フォートスチュアートのCottrell Fieldに満ちた第4騎兵連隊第2大隊の家族が大気を興奮で一杯にしていた。拡声器は愛国的な音楽を流し、 アナウンサーが7ヶ月以上も前から始まっていたカウントダウンを締め括って言った、「英雄の帰還です!」旗を立てたバスが駐車場に入り、疲れた兵らを吐き出した。その場所はつい8月に展開を告げられた体育館からわずか100mしか離れていなかった。妻、息子、娘、母、父、姉妹、兄弟らは勇敢な兵とその家族の長旅が終わらんとするそのときを固唾を呑んで謝肉祭のときのようなお祭り気分で待った。先任曹長が大隊を整列させ、軍旗を広げた。大隊長は最後の100mを進むよう命じ、かくて第4騎兵連隊の誇りある歴史の中の一叙事詩が終わった。連隊史におけるこの1章は南北戦争以前からの伝統を引き継いでいる。1860年8月に、1885年にカンザスのフォートワースで創設された第1合州国騎兵連隊が第4騎兵連隊と改称されて初期の植民者を守り辺境の法と秩序を維持するため西部に駐屯した。編制完結後、連隊はカンザスのフォートライリーにへEdmun V. Sumner大佐の下で移った。連隊に配属された士官にはJoseph E. Johnston中佐、John Sedgwick少佐、 William Emory少佐、J. E. Stuart大尉、George B. McClellan大尉などの著名な者がいた。JonstonとStuartを除く全将校は南北戦争勃発時、忠誠を保った。この忠誠を誇りとして、
連隊の決めたモットーが、備えと忠誠、であった。連隊は南北戦争中20の作戦に参加した。

戦争後、第4騎兵は辺境任務に戻り、その後1898年から1907年までフィリピン諸島に送られた。こうして連隊旗にはさらに10本の戦闘旒を加え、世界中へ展開する伝統を確立した。第2次世界大戦中は、連隊はノルマンディー海岸に上陸した最初の部隊であることを喧伝した。こうして、さらに5本の戦闘旒を旗に加えた。

第4騎兵は韓国とベトナムでも戦闘したが、その間第2大隊は第1機甲師団、ついで第4機甲師団に配属されてドイツにいた。1972年7月、第2大隊は閉隊となり、1987年1月にジョージア州フォートスチュアートで第24歩兵師団(機械化)(Victory師団)の師団偵察大隊として再開隊した。砂漠の嵐作戦中には、ペルシャ湾岸で第4騎兵連隊第1大隊も第1歩兵師団(機械化)にて戦闘している。

本作の目的は三つある。第一に、砂漠の嵐作戦における任務部隊2‐4騎兵の行動を記録すること。第二に、同任務部隊を例として将来の研究の枠組みを確立すること。TF2-4Cavのペルシャ湾岸での経験を通じて、訓練、編制、指導、教義、補給、米国軍人の質について多くの戦訓を得ることができる。最後に、私は読者が戦争の個人的面での理解を得られるよう自身の意見や経験を加えた。本作を通じて、個人的意見は斜字体で記してある。

同時に、計画、実行、そして組織の環境面についての詳述により、読者は機甲騎兵作戦を軍人が成功させ、帰還するには、複雑性、柔軟性、そして精神的敏捷性が必要とされることを理解するだろう。まったくのところ、この知的能力こそ一人前の騎兵、そして今日の戦士の印である。ペルシャ湾岸における作戦において第4騎兵連隊第2大隊はその長い誇りある伝統にさらなる素晴らしき一章を加えたのであった。


II.序曲:展開そして砂漠の盾作戦

2‐4Cavの砂漠の嵐作戦における叙事詩は大隊の先導部隊が出撃線をイラクへ1991年2月24日に発ったときよりもずっと以前から始まっている。フォートスチュアートで第4騎兵連隊第2大隊(2‐4Cav)は第24自動車化小銃大隊として通っていた。その主要任務はVictory師団の機甲任務部隊や機械化任務部隊らが国家訓練センター(NTC)の輪番に備えるため対抗部隊活動を遂行することだった。1987年にJシリーズ編制および装備定数表へ転換して以来、大隊階梯外部訓練評価を大隊はしていなかった。大隊の最後の大隊階梯外部評価が行われたのは2-9Cavと呼ばれていた1986年であった。大隊の一回きりのNTC輪番があったのは1985年のことであった。さらには航空騎兵中隊は地上部隊とともに戦術作戦をしたことがなかった。これゆえ、1990年に大隊が展開したとき、明白で困難な問題を抱えていた。

これらの問題にもかかわらず、1990年8月7日に戦の角笛が鳴り響いたとき、2‐4Cavは第24歩兵師団(機械化)(24 ID(MI))の独立した師団部隊として先導旅団とともに展開し砂漠においてあらゆる騎兵任務を遂行した。実際、2‐4Cavは(クウェート国境からおよそ100km南の)Tapline道路に沿って師団警戒帯に80km長の遮蔽幕を展開し、ジョージ・ブッシュ大統領のいう「砂中の列線」に歯を与えた最初の米陸軍機械化部隊となった。



1990年7月12日、カンザス州フォートレーベンワースにある合州国陸軍指揮幕僚大学を卒業して、私は第24歩兵師団(機械化)に配属された。私のG3班の一員としての主任務は師団緊急活動センター統括将校だった。1ヶ月もたたぬうちに、1990年8月7日0100に、私は第24師団師団長Barry R. McCaffrey少将に第18空挺軍団から受領したばかりの展開命令を手渡していた。文は10行にも満たぬもので簡潔だが深く練られており、第24歩兵師団(機械化)に「中央軍へ展開せよ」と命じていた。師団長補(支援担当)のFrank Miller大佐と参謀長Joe N. Frazar大佐も師団に警報を発しすぐにVictory師団の全員とその家族に大きな影響を与えることになる伝達の文言を師団長が執務室で決めているときその場に居た。そのときの会話で、McCaffrey少将は私が永遠に記憶に留めることになる台詞をいったのだった。「この瞬間から先、我々全員で”難事業”の意味を改めることになるだろう。」

師団に警報が発せられたのは1990年8月7日0300だった。13年の軍役で、これほど困難な仕事に対して人々が懸命に、長時間取り組むのを見たのは初めてだった。昼夜の別はなかった。0200に掛かってきた電話に20時間勤務していた文民の秘書が出、事務室や廊下には疲れきった者が数時間の睡眠をとるため簡易ベッドが用意され、師団本部の裏に野外炊事所が設けられた。わずか72時間後には、車両が動き始め師団は移動を開始した。

#訳注 文章中の写真説明

1991年8月(原文ママ)、Victory師団の兵らはジョージア州サヴァンナのHunter陸軍飛行場の格納庫でサウジアラビアへの飛行を待ちつつ休息している。ジョージアの熱気もダンマン港で経験したのと比べると形無しであった。

#訳注 文章中の写真説明終わり

警報からわずか6日間と9時間に57分間で、FSSカペラが全部で10隻の第一船として第2旅団戦闘団の大部分と第4騎兵連隊第2大隊を搭載して旅路に出た。

#訳注 FSS fast sealift ship 高速海上輸送船
#http://www.globalsecurity.org/military/systems/ship/takr-287.htm

わたしのこなした任務の一つは師団主指揮所を移動させサヴァンナ港で船積みすることだった。それまで師団主指揮所を見たことは無かったので、本当に大難事だった。

1990年8月22日、師団主指揮所の人員移動の担当となった。我々は家族に別れを告げ、武器を受け取り、サウジアラビア王国への飛行を待ってHunter陸軍飛行場の格納庫で36時間過ごした。

最初から、McCaffrey少将は2-4Cavを彼の統制下で独立部隊として用いることを構想していた。事実、最初の頃の師団部分命令の一つは、航空旅団から2-4Cav大隊を解属して師団統制下に置くものだった。この解属は師団騎兵作戦を巡る根本的問題を明るみに出している。大隊が1987年1月に第4騎兵第2大隊と改称したとき、新編制と装備への転換の過程が始まった。この新たな師団騎兵大隊は航空旅団に配属され、2個地上騎兵中隊と2個航空騎兵中隊からなっていた。地上騎兵中隊の戦闘力は主としてM3騎兵戦闘車両19両とM106自走迫撃砲3門だった。航空騎兵中隊には観測ヘリ(OH-58C)6機とTOW攻撃ヘリ(AH1F)4機を有していた。

#訳注 M106 mortar
# http://www.globalsecurity.org/military/systems/ground/m1064.htm
#M113車体に107mm迫撃砲搭載した車両。

2-4Cavの前身である2-9Cavは戦闘力についてははるかに強健な編制であった。地上中隊には主戦闘戦車12両があり、偵察車両としてはM113派生型16両が用いられていた。航空資産は全て少佐指揮の1個航空中隊に入っていた。編制および装備の変更は能力に大きな変化があったばかりでなく全く新たな指揮統制となったためである。つまるところ、戦闘力が比較的欠如しているため、大隊は以前日常的にこなしていた戦闘任務の多くを行うことが出来なくなった。この切り詰められた新編制の創始者は騎兵大隊はこれまでのように師団の10個目の機動任務部隊としてでなく、偵察と遮蔽幕作戦を行うことを構想していた。

確かなことは、McCaffrey少将は10個目の機動任務部隊のほうを好んだことである。自身の統制下に直接、強力な戦闘部隊を運用できる柔軟性を得られるのだから。

砂漠に展開して、TF2-4Cavは師団長統制下で特定の任務を遂行するよう編成された。第一に、第197独立歩兵旅団が第24歩兵師団(機械化)の3番目の機動旅団として展開した際に、第4騎兵D中隊、ジョージア州フォートベニングの第197独立歩兵旅団独立騎兵中隊が大隊に配属された。特記すべきはD/4 Cav(第4騎兵D中隊)は連隊騎兵中隊として4個小隊編制であったことである。M60A3装備の2個戦車小隊と、3両のM113と3両のM901改良型TOW車両を装備した2個偵察小隊、そしてM106自走迫撃砲3両を装備した1個迫撃砲班からなっていた。第二に、師団のMLRS(多連装ロケット)中隊である第13砲兵A中隊(A/13 FA)が任務部隊に配属されて初期の遮蔽幕任務において間接射撃支援を供した。第三に、いくつかの機械化歩兵団や機甲団がサウジアラビア到着次第配属されて師団戦区の当初占領時における大隊の戦闘力を増加した。

砂漠の盾作戦のはじめ数週間は実に不安定な時期だった。サダムフセインがサウジアラビアを攻撃する可能性は本当にあったためである。TF2-4Cavは最も前方に展開した合州国機械化部隊であり、戦力の大増強は正当であり歓迎だった。が、これらの部隊を統合したことで大隊指揮には大変な負担となった。というのも部隊は大型任務部隊はおろか騎兵大隊として訓練する機会すらそれまで多くは無かったためである。幸運なことに、訓練は実りあるものであり、わずか5ヵ月後には大隊は大型任務部隊として良く戦えた。

我々の飛行機がサウジアラビア王国のダーラン国際空港に到着したのは1990年8月23日0600だった。飛行機を降りるとき、客室乗務員が涙を浮かべつつ何でも欲しいものをくれた。(私は野外にはいまなおユナイテッド空港の毛布を持っていく。)0630に我々は飛行機を出た。気温は華氏93度だった(その日は130度まであがった。)1300頃、我々はバスに乗り、ダンマン港へ向かった。人生でバスに乗っていたのはあれが一番長かった。というのは例の陸軍の流儀で10両かそこらのバスの全座席が一杯になるまで運転手は出発しなかったからである。その結果、バスに乗るだけで一日で一番熱い時間帯に一時間もかかった。

師団前方主指揮所(Victory Forward)についてすぐにG3班の当直将校としての任務を引き継いだ。職業的には、このような厳しくストレスの高い環境で当直将校を引き継ぐ備えはできていなかった。が、任務は明確だった。師団で起きているあらゆることに通じることである。この点で偽りは無かった。この任務は、けれども常にもまして困難であった。というのは通常の通信システムが動いていなかったからである。明らかに最もくたくたになっていた参謀将校は師団通信将校補のFred Lehman少佐だった。彼は早夜最新状況会合で報告をしているときに気を失ってしまった。航空機の到着が続き、船舶も到着して荷卸を開始した。
私の主要な任務の一つは毎夜師団最新状況で師団長にG3報告をすることだった。あまりに沢山のことが起こるので、この報告はとても難しく、何事にも確実だとは思えず、そして実際にその通りだった。

最初に集結して砂漠に出発した部隊がTF2-4Cavだった。通信は間歇的だったが、この初期のころ我々は大隊の移動を綿密に追った。次第に任務部隊は砂漠へ200km進出した。誰もが砂漠に居る大隊に喜んで加わった。というのも港での生活は耐え難かったからである。
砂漠は厳しかったが、港の湿気と酷い衛生環境は無かった。あるとき、我々は港湾地域が弾薬で一杯であることに気付いた。それどころか師団本部のすぐ外の船は弾薬を搭載しているのであった。これで一層砂漠は魅力的に思われたのだった。

G3班での任期中、私は師団長とG3参謀Pat Lamar中佐に師団全体の作戦を追跡し統制する責任を負っていた。とりわけ、作戦班は師団主指揮所の日常活動を監視し、主指揮所に配属された連絡将校を統制し、師団部分命令を書いて発し、指揮群に毎晩2000の状況報告で報告し、軍団に送られる師団長毎日状況報告を起草した。こうして、これらの任務をこなすことで師団のあらゆる活動を知ることになった。また、作戦班は他の合州国および連合国軍の状況を追跡しますます多くの部隊が戦域に到着するに従い師団地上管理班の役目も果たした。この利を生かして、私は毎日2-4Cavの活動を追跡できていた。

#訳注写真説明
郵便の配布は大変重要だった。星条旗紙を届けてくれた。新聞は最新のものではないこともあるだ、常に歓迎だった。外部の世界との接触は郵便、新聞、ラジオに限られていた。ラジオの受信は間歇的で断続的だった。Voice of Americaが最も信頼がおけた。抜きん出て重要だったのは家への電話だった。AT&Tと師団の要員が電話センターを立ち上げて運営するという素晴らしい仕事をした。砂漠の盾作戦中には師団戦区に電話センターが3つあった。師団が攻撃位置に移動した時には機動電話センターをAT&Tが供してくれた。兵は一月に一度家に電話をかけることを無理なく期待できた。任務部隊が最後に家に電話する機会は地上戦闘開始3日前だった。(左から右へ Gary Castilla軍曹、Marty Keys特技兵、Jay Nolet一等兵)
#写真説明終わり

2-4Cavはまた辺境へと出発した。今回はサウジアラビアのTapline道路に沿った辺境である。大隊の任務は師団本隊が戦術集合地域を占領する間、師団戦区全体に渡って遮蔽することである。大隊は1990年10月6日に第3装甲騎兵連隊がとってかわるまでもっとも前線に展開した合州国部隊であった。そして大隊が師団が戦術集合地域を占領するため移動する間に防衛するのは南西アジア作戦においてこれが最後ではなかった。

遮蔽幕任務を解かれて、大隊はFort Apacheという名のbase campを占領した。ここで大隊は第4騎兵D中隊を除いて固有の編制に戻った。同中隊は展開中この後も大隊に留まった。直ちに大隊は展開先国内での訓練を開始した。

#訳注 in-country を展開先国内と訳す。

訓練と即応の相克ゆえ、訓練は小隊と班階梯が中心となった。機動訓練をすること自体が即応の低下を招く。なぜなら車両は故障し資源が消費されるからである。大隊あるいは中隊階梯機械化機動は行われなかった。砂漠の盾作戦期間の大半において補給体系はトラック車両の移動が激しかったので車両の即応コストを支えることは出来なかったのである。が、小隊と班の標準訓練演習が開発されて定期的に実行された。常時即応が要求されたので、全階梯の指揮官は戦闘即応と機動訓練のコストを常に調整せねばならなかった。

訓練は小隊と班階梯であったものの、個人訓練は続けられた。大隊は乗車地上航法コース2本と徒歩地上航法コース1本、小火器射撃場を1つ建設した。M3A1搭乗員全員が修正されたブラッドレー砲術表7の課目を遂行した。加えて大隊S2は積極的に情報訓練計画を組織化し、S2とその参謀は毎週全大隊の各中隊地域で実行した。

大隊は師団全体で行われた様々な戦力近代化計画に加わった。D/4 CavはM60A3を更新するためM1A1を配備し、M113偵察車両にMk-19自動擲弾発射器を装備した。



Ⅲ.戦争への移行

師団指揮見積もりが行われて砂漠の嵐作戦の作戦計画が作られるにつれて、遥かに大きな戦闘力を持った大隊が必要とされることが明らかとなった。よって、TF2-4Cavを創設する師団部分命令が1990年12月20日に発された。大隊は任務編成により以下の任務のための資産を与えられた。

24時間、全天候下での偵察作戦
固有の戦闘力による独立警戒作戦
常時即応する火力支援の下で本隊の前衛として作戦
どの旅団支援地域および師団支援地域へも挿入、抽出できる能力を持った維持作戦
あらゆる騎兵任務を遂行しつつ任務編成を迅速に変化させる指揮統制

その結果の任務編成を表1に示す。

表1 偵察及び警戒作戦におけるTF 2-4 Cavの任務編成

第4騎兵連隊第2大隊任務部隊
・第4騎兵連隊第2大隊A中隊(M3A1 19両 M106自走迫撃砲 3両)
・・第124軍事情報大隊B中隊地上捜索レーダー第3小隊 第1、第2チーム (直接支援)
・・第25化学(偵察-フォックス)小隊第7分隊/班 (直接支援)
・・第3工兵大隊(戦闘)A中隊第1小隊 (直接支援)

・第4騎兵D中隊(M1A1 9両 M113 6両 M106自走迫撃砲 3両)
・・第124軍事情報大隊B中隊地上捜索レーダー第3小隊 第3、第4チーム (直接支援)
・・第25化学(偵察-フォックス)小隊第7分隊/班 (直接支援)
・・第3工兵大隊(戦闘)A中隊第3小隊 (直接支援)

・第69機甲連隊第3大隊D中隊 (M1A1 14両)
・・第3工兵大隊(戦闘)A中隊第2小隊 (直接支援)

・第13砲兵大隊A中隊(MLRS) (MLRS 9両)
・・第333砲兵中隊(目標捕捉中隊)G小隊/Q37 (直接支援)
・・第197旅団本部及び本部中隊対空小隊(スティンガー)第1班~第4班
・・第3工兵大隊(戦闘)A中隊(-)(直接支援)
・・第5対空連隊第1大隊第4中隊第1小隊(スティンガー)第1班~第4班(直接支援)

・第91第5化学(煙幕)(直接支援)
5/91 CHEM (SMOKE) (DS)
・第124軍事情報大隊C中隊(直接支援)
・・第18空挺軍団第525軍事情報旅団第519大隊C中隊第2小隊第1班(電子戦)(直接支援)
1/2/C/519/525/XVIII ABN CORPS (EW) (DS)
1/3/C/519/525/XVIII ABN CORPS (EW) (DS)
第1124軍事情報大隊第13中隊第1小隊第3分隊(捕虜尋問)(直接支援)
3/1/13/124 MI (IPW) (DS)
TACP (DS)
SQUADRON TRAINS
LOGISTICS SUPPORT TEAM(LST) 724 SB (MAIN)
MAINT TEAM 224 SB (FWD)
MAINT TEAM 197 SB (FWD)

(兵員総数は1250名から1375名。車両はおよそ250両)

この新たな任務編成で目立つのは大隊が2個航空騎兵中隊と航空部隊整備中隊、言い換えるとE中隊を失ったことである。補給支援を増すため、師団長は全航空資産を航空旅団下に編合した。また、砂漠の嵐作戦で一般にみられたことだが、師団長は航空部隊を用いて機動旅団と(自身に)迅速対応部隊と即応偵察資産を供した。既に論じたように、第24歩兵師団(機械化)が騎兵大隊を独立した機動任務部隊として用いたことは明白である。新編制が施行されるに先立って長い年月、ドイツの重師団では航空中隊を戦闘航空大隊に派出しており、師団偵察大隊は完全な地上機動部隊としての運用に専心していた。実際、これらの大隊は戦車36両、TOWミサイル搭載車両18両、ドラゴン対戦車ミサイル搭載のM113偵察車両18両を擁していた。欧州のこれらの大隊は戦車大隊や機械化歩兵大隊よりも固有の戦闘力が大であった。繰り返すが、これらの大隊は騎兵任務を行う10個目の機動大隊として使われていた。

1991年1月18日、航空騎兵中隊はTF 2-4 Cavから解属されて航空旅団にTF Air Cavとして配属された。TF Aif Cavの指揮官は以前大隊の副長であったL. Clay Edwards少佐だった。この配属は戦争中続き、航空騎兵中隊は様々な多くの部隊へ特定の任務を遂行する短期間毎に作戦統制下で配された。

(#訳注 画像に付けられた説明の訳
Fort Apacheのクリスマス。小さい白い巡礼用テントは教会。クリスマスツリーをトナカイが支えているのに注目。前景に見えるタイヤは砂漠で道路を示す。しばしば営地周囲の道路やヘリ着陸帯には燃料が撒かれてパウダー状の砂表を通る車両通行による埃を押さえた。
(#訳注 続いてもう一枚、右に並んだ画像に付いている説明の訳
機動酒保(PX)。部隊はPXの運営に自前で人員を出さねばならなかった。各部隊はPXの講座を開き、兵士を差し出さねばならなかった。部隊は広い範囲に別れ別れになっていたから、PXを現地で購入した車両に乗せて移動可能にした。砂漠では野外走行能力が求められるがこれらの車両には容易くは無かった。ドアが車両の天井に縛り付けられており、運転手側のドアがダンボールで代用されているのに注目。

新たな任務部隊がFort Apacheに集結するにしたがい、大隊長はこの任務編成の変更により直ちに訓練の必要があることに気付いた。そこで、大隊はTOCEXs(戦術作戦センター演習)と呼ばれる様々な指揮統制演習を実施し始めた。これらの内部演習で大隊の指揮系統体系を大きく向上した。また、1990年12月には大隊長は任務部隊の全部隊を騎兵作戦に馴染ませるため活発に指揮官訓練計画を組織化した。この戦闘演習は任務部隊の全部隊の能力についての座学から始まった。ついで、小隊軍曹に至るまでを含める大隊の指揮官が、事前予行をとおして行い、HMMWV(高機動多目的装輪車両)に搭乗しての野外訓練演習を終えた。最後に、大隊は各指揮官がそれぞれの戦闘車両に搭乗しての2日間の搭乗野外訓練演習を行った。この1週間の訓練で、確立された標準戦術、戦技、手続きを実行できる能力があるという自信を大隊は膨らませた。


IV. 戦闘に向けての組織

TF 2-4 Cavの任務編成は例外的であったのでFM17-95 騎兵作戦に記述されている戦術、戦技、手続きの修正が必要だった。大隊は前方戦術指揮所(TAC CP)、主指揮所或いは戦術作戦センター、後方指揮所としても使われる管理及び補給作戦センター(ALOC)に組織されていた。ALOCは同行の戦闘縦列と通常は旅団支援地域(BSA)に位置する野外縦列のうち大隊の作戦域に最も近いものとを統制した。

TAC Cpは2両のM3A1と航空連絡将校に属する1両のM113A2からなっていた。TAC CPを担当する将校は作戦将校(S3)だった。大隊長(SCO)はTAC Cpで戦闘し、必要に応じてTOCに戻った。大隊長は航空連絡将校とともにTAC Cpに配されたM113A2に乗っていた。この車両はUHF、VHF(あらゆる型の航空機と交信出来る)を含む無線機が複数あり、大隊長にもっとも効率的な機動通信能力を与えた。また、大隊長がM3A1よりもM113A2を指揮統制車両として好んだのは、主として乗員室の大きさによる。S3はM3A1で活動し、残る1両のM3A1は主として他2両の警護車両を勤めた。TAC CPは前方に位置し、大抵先頭中隊とともに運動するが見かけられた。

TOCは5両のM577(指揮所車両)と様々な装輪車両からなっていた。M577は、それぞれS2、S3、火力支援将校、工兵、通信(RATT(無線およびテレタイプ)装備)用だった。TOC担当将校は大隊副長(SXO)で、担当下士官は作戦曹長だった。TOCで働いていた将校はS2、作戦班の戦闘司令(battle captain)2名、火力支援将校、飛行作戦将校、工兵中隊副長、通信将校だった。TOCの全将校と兵はSXOと曹長の直接下で働いた。TOCの責任は現行作戦の統制、将来の作戦の計画、計画と命令の送達、役務支援調整、あらゆる上位および側翼部隊との調整であった。距離があったので、SCO(大隊長)が大隊の上位司令部と戦闘作戦遂行中に交信できることは稀だった。よって、TOCに位置する戦術衛星無線(TACSAT)が最も信頼できる師団と旅団への連絡となり、SXO(大隊副長)が定期的にTACSAT、TACSATは機動性が無かった、を用いて通信や命令を受け取って中継した。到達範囲にいるときは、FM(周波数変調)無線も通信に用いた。そしてTOCの移動中はFMが唯一の通信手段だった。TOC(戦術作戦センター)はSXOの統制下で傘下部隊と上位部隊との通信を絶やさぬよう独立して運動した。そのため、TOCの位置は総じて作戦区域の中央だったが、戦闘部隊は同位置になかった。ゆえに、TOCは自身で警護を担った。

(#訳注 画像説明)
指揮群のM113A2。このM113A2は航空連絡将校の班に支給された。任務部隊指揮官はこの車両で戦闘を指揮した。というのも、無線が追加されており、乗員室は任務部隊の指揮ができる広さだったからだ。同車には航空機と交信できるUHF無線と信頼性がより高いGPSがあった。指揮官の騎兵戦闘車両はJames Gill二等軍曹が指揮し、指揮M113と作戦将校の騎兵戦闘車両の警護をした。James Gill二等軍曹はいかなる航法手段も無しに砂漠で航法する
能力が非常に高かった。彼の車両は任務部隊がイラクへ入る前の晩に故障した。自分でGillは200km以上を航法して任務部隊に合流した。これらの3両で指揮群は成り立っていた。

戦闘縦列はALOC(管理及び補給作戦センター)、支援小隊と小さなS1/S4班から成っていた。整備兵は部隊整備収容点(UMCP)の配置につき、大隊整備小隊の多くは大隊整備将校の統制下だった。S4が戦闘縦列を担当し、その任務は教義の内容に沿ったものだったが、任務部隊の戦務支援組織全体が任務部隊の様々な面を反映している点が異なっていた。戦闘縦列には第724主支援大隊の補給支援チーム、第197と第224前方支援大隊の整備支援チームが含まれていた。中隊の補給資産は先任軍曹が統制し中隊戦闘縦列とともに前方に位置した。

この大きな任務部隊が形成される際、師団長は任務部隊指揮官を助けるのに副指揮官(DCO)が必要だと気付いた。その結果、1990年クリスマスに3-69 機甲の前副長だったLouis Gelling Jr.少佐が新たにDCOとなった。戦闘作戦中、DCOは主として任務部隊の補給支援の責任を負って、主にALOCで活動した。必要に応じてDCOはTOCやさらにTAC Cpにゆき、任務部隊の指揮を引き継いだ。副指揮官が前方に到着するまでの間は副長が指揮を受け継いでいた。

(#画像説明の訳)
偵察及び警戒段階におけるTF 2-4 Cavの主指揮所TOC。
左から右へ、それぞれ工兵用、火力支援用、作戦用、情報用のM577指揮所車両。一番右のM577の隣のTACSAT(戦術衛星)無線のアンテナに注目。アンテナは作動するには衛星に向ける必要があった。TACSAT無線は機動性が無かった。任務部隊は師団で5個のみのうち1つを持っていた。偵察及び警戒段階における第124軍事情報大隊C中隊の電子情報傍受器に注意。

注記: 主指揮所の構成はSUPER HOT、HOT、COLDの3種類があった。SUPER HOTはTACSAT無線に機動性がなかったために、通信を確立するための短時間の停止用である。HOTはより長時間の停止で用いられ、戦争中重用された。COLDは長期にわたる静的作戦で用いられた。この図の構成はCOLD TOCである。
TF 2-4 Cavの主指揮所、夜間作戦を可能とし要員を風雨から守る延長部が特徴的な構成。車両の2色迷彩に注目。この迷彩は展開前から全ての騎兵車両に使われていた。というのもこれは大隊がフォートスチュアートにいたとき対抗部隊に属する車両であることを示している。また右のVの字はVictory師団(#訳注 第24歩兵師団)の全車両に描かれていた。逆のVは連合軍の全車両に描かれていた。
(#画像説明の訳終わり)

大隊整備将校は部隊整備収容点の責任を負った。大隊整備将校は部隊整備収容点を確立し、位置を報告し、整備資材を使用可能に管理し、前方部隊に対して迅速に対応できる整備支援を維持できるよう移動した。部隊整備収容点確立の標準は以下の通り。
部内の回収資材で損傷車両を牽引する。全回収資材が装備を牽引する状態になり、そこでさらに車両が故障したら、全ての牽引されていた車両を切り離して上級整備将校か現場の下士官の統制下に部隊整備収容点を確立する。回収資材は全て前進し続けて本隊に追及し、故障車両を拾う。部隊整備収容点の車両が作戦可能となったら、全部が集団となって前進し、部隊に復帰するか他の部隊整備収容点と編合する。砂漠の嵐作戦中、5つの部隊整備収容点が設立された。この方式は修理された装備が可能な限り早く部隊へ復帰できるため大変に対応性があった。

本部及び本部中隊長は野外縦列を担当し、砂漠の嵐作戦中の大半は第224前方支援大隊に位置した。第224前方支援大隊は第2旅団を直接支援していた。本部及び本部中隊長の主な責任は旅団支援地域に戻った補給資材を推進することだった。簡潔に言うと、戦務支援資材の戦闘縦列と旅団支援地域や師団支援地域(DSA)との間の運動を調整していた。また本部及び本部中隊長は戦闘縦列に戻る補給車列を組織し指揮統制をした。野外縦列は大隊の作戦地域への近さに応じてどの旅団支援地域や師団支援地域からでも支援を受ける権限を与えられていた。

V.戦時のTF 2-4 CAV

(#訳注 画像説明の訳)
師団がTapline Roadで曲がる地点を逃さないようこの掲示が立てられた。攻撃陣地へのTapline Road上の路上行軍は永遠に続くかのように思われた。ジョージア州Hinesvilleは第24歩兵師団(機械化)の原屯地である。このころまでには部隊全員がHinesvilleへの道はイラクを通り抜けねばならないことが分かっていた。

TF 2-4 Cavの戦争叙事詩は1991年1月16日に始まる。この日の0300に任務部隊TOC(戦術作戦センター)はCENTCOM総司令官H. Norman Schwarzkopf大将から戦争の開始を告げる通知を受け取っていた。航空機が頭上をイラクへの航空攻撃第一撃のため音をあげて飛び過ぎ、TF 2-4 Cavの兵士らはサウジアラビアのJeladyのすぐ北にあった行軍地域Victoryで、500km以上も離れたサウジアラビアのNisabからおよそ50kmにある陣地へ運んでくれる重装備運搬車(HET)やトレーラートラックを待っていた。

1991年1月22日、攻撃前陣地への運搬を待っている最中だったが、大隊長が医療後送されて、Gelling少佐が任務部隊の指揮を引き継いだ。1月23日0330に任務部隊はHETへの積み込みを開始し、Tapline道路を通って北西へ500kmの移動に備えた。

(#訳注 画像説明訳)
Louis Gelling Jr.少佐はサウジアラビアのNisab付近での警戒帯の占領中任務部隊の指揮をとった。

1月24日2000に、任務部隊はサウジアラビア=イラク国境沿いに警戒帯を占領するため進発した。1991年1月25日、任務部隊は17本の車列で新たな集結地域に入った。Tapline道路は基本的に作業道路で幅員は15フィートから20フィート。アラビアアメリカ石油会社(#訳注 アラムコ サウジの国営石油会社)のパイプラインの作業に用いられている。作戦中、連合軍の大半の支援にこの作業道路が用いられた。極度に激しい交通であり、事故が定期的に起きていた。装軌車両の全乗員は自車に搭乗してHET上で運ばれた。HETは地元民が運転していたので、車列統制は困難であり、出発時と同じ編成で到着することは稀だった。さらに状況を悪化させたのは天候であり、雨天で寒かった。作戦の保全上の理由から、移動は大半が夜間に行われた。到着すると直ちに任務部隊はサウジアラビア=イラク国境沿いに陣地占領へと進発した。

警戒帯は幅員70km縦深10kmだった。任務部隊の任務は次の通り。
警戒帯から敵部隊を掃討する
師団の本隊が集合地域、そして後には攻撃陣地を占領する間防御する
警戒帯で地域偵察を行い、国境における全ての地形を識別し、国境沿いに走る堤を含む特徴的地形を分析することで攻撃の計画を助ける
昼間作戦を限定することで師団の蓄積を隠蔽する

とりわけ、部隊の防御が師団長が任務部隊に与えた重要な任務であった。

前方集合地域に到着すると、任務部隊は迅速に戦区へ展開し警戒帯を掃討した(地図1参照)。当初、警戒帯はサウジアラビア=イラク国境沿いの10km縦深として設定されていたが、越境しての戦闘情報が必要となり、国境のイラク側の10km縦深も含むよう拡張された。敵部隊は発見されず、任務部隊は何事も無く戦区を占領した。

1991年1月29日、Thomas J. Leney中佐がTF 2-4 Cavの指揮を引き継いだ。Leney中佐は1991年春に大隊の指揮を執るよう予定されていた。が、直ちにTF 2-4 Cavの指揮を執る必要があったので、陸軍総参謀長は1月24日にワシントンを出立し南西アジアに向かうよう指示した。

1月29日から2月3日にかけて、大隊参謀は再編された。師団G3班からJoseph C. Barto III少佐(#訳注 原文筆者)が大隊副長を引き継ぎ、S3補佐のPeter Utley大尉が作戦将校(S3)となった。師団S2班からKarl Buchanan大尉が到着して情報将校(S2)を引き継いだ。師団戦術指揮所の戦闘指揮(battle captain)Rans Black大尉が戦闘指揮となり、機甲将校上級課程(Armor Officer Advanced Course)から直接Jeffrey Bierl大尉がもう一人の戦闘指揮となった。戦闘参謀内での最後の大きな変化は1991年2月20日にあり、24Cavの古参兵であるBernard Cabrerra曹長(P)が作戦上級曹長の任務を引き継ぐため、長い困難な旅を終えて到着した。これらの要員の変更は大隊が師団のために警戒作戦を遂行している間に行われた。新大隊長と新参謀将校らにとって、まさに戦火の洗礼であったが、彼らは真の騎兵の流儀、備えと忠誠 で応じた。

地図1. 第一段階:偵察及び警戒作戦

2月1日午前0730頃だった。私は長い12時間の主指揮所でのシフトが終わり、次のシフトに備えて起きたばかりだった。班の無線要員の一人が前掛を開けて、「師団長がすぐに会いたいそうです」と言った。呼ばれるのは初めてでは無かったし、大抵は私の調子をみるためでもなかった。G3班の仕事は”無欠点”が求められる仕事であり、全てが完璧であるのが水準であり、何かがよくないと「作戦」とすぐにも声が発せられるのだった。よって、私は自分の仕事振り、班の仕事振りを、やや怒りっぽい上級将校との一方的会話をしてからどれくらい経っているかで計っていた。何がよくないのだろうと思いつつ素早く服をととのえた。主指揮所につくと、G3が握手してくれ、私が知らぬことを知っているかのように全員が私を見ていた。丁度その時、McCaffrey少将がバンからでてきて、主指揮所と同じとこにあった彼の寝台用バンに私を連れて行った。 私は内心で目まぐるしくまどっていた。何が次に起こるのか見当が付かなかった。彼は私の肩に手を置いて言った、「君を任命する、明日から君は騎兵大隊の副長だ」(#訳注 原文the Cai Holy Jesus! Cavalry Horseをさしている?)私は完全に不意を突かれた。気持ちがぐるぐる動いた。この年季入りの戦士は私の驚愕に気付いた。まるで胸を野球バットで殴られたようなものだった。この頃には我々が戦うのは分かっていたがいつであるかは知らなかった。家族のことを思い、使える電話は無かったから妻には話せそうに無かった。比較的安全な主指揮所から騎兵へ、そして最初にイラクに入る部隊の一員となるのは師団の最も若い将校の一人にとっては大した変化だった。次に私が指揮することになる兵士のことを考えた。私は彼らにふさわしいだろうか?私は騎兵のことは分かっていた。というのもドイツで第3機甲師団の騎兵中隊を指揮したことがあったからである。とはいえ、それは5年前のことだった。McCaffreyは暫く時間をかけて私への信頼を伝えてくれ、大隊長がまっさらの新任であるから、師団とその指揮を知る者がこの職ににつくのを彼は求めていた。また、彼は、私は任務部隊のTOC(戦術作戦センター)を切り盛りするのに適していると告げた。私は彼に断わるつもりはありませんといい、直ちにテントに戻り妻に手紙を書き、バッグに荷物を詰めた。

(#訳注 画像説明の訳)
イラク=サウジアラビア国境沿いでのTF 2-4 Cavの指揮交代式。師団長Barry R. McCaffrey少将が主宰し、Louis Gelling Jr.少佐(Major(P))が部隊の指揮官をした。

その後24時間の間、私の心を行き来した思いを全て思い出すことはできないが、分かってたことは次の日から、私が正しくやれることに懸かっている兵士を持つということだった。私はそのわずかな時間の大部分を日を過ごすための力と不屈の精神を求めて祈った。

その夜、私の最後の主指揮所での2000の状況報告で、集っていた者、私が多くの経験をともにしてきた者に、兵を戦闘で率いるため成人後の人生の大半を過ごしてきたのだと話した。さて、私の職業上そして個人としての勇気と能力の全てを呼び集めて行うときがきたのであった。次の朝(2月2日)0630に、Greg Stone少佐が私のテントに到着した。そして私は騎兵のところへ向かった。この日は妻の誕生日だった。

任務部隊TOCに到着すると、指揮官参謀会合が行われている最中だった。部屋を見渡すと見覚えのある顔は多くは無かった。彼らにとって、私は過去1月かそこいらから続いている大隊の指揮層がまた一人変わったということだった。戦争が終わった後に、下級将校の幾人かが私に言ったところでは、彼らにとっては奇妙な時期だったとのことだった。彼らの間ではTOCには行かないほうが良い、というのは戻って来れなくなるからという冗談があったという。5人の将校、大隊長もこのうちに入っていたが、3人の参謀将校、1人の小隊長にとってはこれは真実だった。

私はそれまで新大隊長にあったことはなかったし、彼は指揮について丁度4日間だった。幸いに、私は師団にいたときに新士官を沢山みていた。副大隊長(DCO)Lou Gellings少佐と私は彼が師団主指揮所の副G1だったころから互いに知っていた。新S2、Karl “Buck” Buchanan大尉とRans Black大尉は私が師団主指揮所にいたころからの馴染みだった。また、私のG3作戦班での任務のおかげで、私は任務部隊TOC(戦術作戦センター)の多くの者と無線や電話でこれまでの6月間定期的に話していた。年季の入った砂漠の部隊員らに最初から受け入れられたのには幾つか理由があったと思う。第一に、Greg Stone少佐が最初の日に私を要員に紹介して現在の作戦と作戦手順について説明してくれたこと。第二に、Gelling少佐の任務部隊の指揮環境についての機微に通じた評価で手早く私の面している課題が明らかとなったこと。第三に、私のこれまでの任務により、”大きな構図”について正確な見通しを持っていたこと。この見通しは皆に重宝された。

指揮官参謀会合に直ちに続いて、大隊長(SCO)は指揮官一同と会って明確に、役割、責任、指揮系統を定めた。Gelling少佐は指揮の次席となり任務部隊の補給作戦の責任を負った。S1、S4、大隊整備将校、衛生小隊長、軍医、従軍牧師がGelling少佐の直接下で働く。私はTOCを担当し、S2、火力支援将校、航空連絡将校、飛行作戦将校、戦闘指揮(battle captain)が私の直接下で働く。とりわけ、私は現在の作戦の統制と将来の作戦の計画を任された。それで、計画については、S3も私の権限内で活動することになった。

翌朝、2月3日、私はStone少佐を乗せて師団主指揮所へと運転した。彼はG3班での私のこれまでの任務を引き継ぐのだった。任務部隊に戻る途中で、私は二人の新たに交代してきた士官を拾った。Jeff Bierl大尉とWayne White少尉であった。両名とも本国から到着したばかりで、JeffはTOCで戦闘指揮のうちの一人に、Wayneは衛生小隊長となることになっていた。私はすでに大隊で最も新参の将校ではなくなったわけである。視界をくらませる砂嵐のため、TOCへの帰路は通常1時間かかるところ、3時間以上もかかった。コンパスと走行距離計のみを用いて無視界状況で航法する困難さを経験したのはこれが初めてだった。大変に正確とはいえなかった。砂漠での初の旅の道程の大半でうまくいったのは途中の部隊で止まっては座標を聞いたからだった。この座標を使って新たな方位と方向を地図に書き込んでは出発したのだった。

1991年のサウジアラビアの冬は降水量が最も多かった一つだった。壕は水で一杯になり、砂漠で雨が降るとどのように生活環境がなるのかを見せつけた。舗装道路は大半が石油系素材だったから、雨に濡れると氷よりも滑りやすかった。Tapline道路もそのような舗装だった。

時間が過ぎ行くにつれて、私の自信は深まった。師団での以前の経験から私はTOCで現在の作戦を切り盛りする方法は分かっていた。指揮幕僚大学での最近の訓練で、指揮見積もり課程を用いて作戦を計画する能力に自信がついた。これらと、”大きな構図”についての知識があいまって、適切に入ってゆき貢献する土台となった。とはいえ、まずは私はTOC(戦術作戦センター)の兵士に私が期待することを伝える必要があった。

その日の午後、私はTOCの全員を集めて、TOCでの運用基準を確立し始めた。まず、私はTOCの役割は任務部隊の作戦を統制することであると説明した。統制はTOCの正確で適切な情報を収集する能力により、指揮官が情報を得た上での判断を下すことに基づいている。そこで、TOCは常に全傘下部隊、任務部隊周囲の友軍、上位本部との通信を保たねばならない。機能するTOCとは沢山の情報を明確な戦場の状況へとまとめてこの状況を指揮官が判断するよう知らせることができねばならない。そして、一たび決断が下されたらば、TOCは計画を調整し、発展させ、遂行して、戦場にある全システムが、戦場の決定点と決定機へと向かうようにする。最後にこれらの情報全てを用いて、将来の作戦を予期し準備する。我々の課題はあたう限り最も正確な戦場の状況を描くことである。TOCでの正確さとは”TOC時間”を実時間に対して減少させることである。

(#訳注 画像説明の訳)
砂漠での散髪日。切れ味の良い鋏があれば、”腕の良い”床屋は一時間で20人の髪を切れた。

TOC要員から情報を受け取ったあと、私は直ちに12時間シフトを2つ組み、各シフトに戦闘指揮と運用下士官をそれぞれ1名ずつ配した。私が強調したことは、TOCの全員が情報収集するが、状況図の前に立って絶えず状況を評価して指揮官に報告する戦闘指揮(battle captain)に伝えられて初めて情報が役立つということであった。S2、火力支援将校、飛行作戦将校、S3上級曹長、そして私はどちらのシフトにも入らず常に行動がとれるようにしておく。また、この集団は、S3とともに計画集団の中心となる。TOCの責任は現在の作戦を見守ること、これは戦闘指揮の主要な任務である、と同時に将来の作戦を計画することである。この組織変更とともに、手早く訓練座学をし、士気高揚の話をしてTOC要員は仕事に戻った。戦闘の最中にあっても、TOC要員は毎日訓練を行った。訓練の中には、”早撃ち”つまり化学戦訓練や地図盤の更新や正確に状況報告を受けるための適切な技術などもあった。また、より大掛かりな訓練もした。例えば、ある日は、任務部隊の統制を戦術指揮所に移してTOCの移動技術と様々なTOCの構成を訓練した。訓練は戦闘の中でも続けねばならない、というのは作戦手順の欠点を正す唯一の方法だからである。

(#訳注 画像説明)
野外に設置されたシャワー。個人衛生は砂漠では常に問題だった。補給と距離の関係で洗濯はとりわけ困難な問題であった。戦闘作戦中は、洗濯と個人衛生は重要な士気事項である。師団の規則では各兵士は毎朝、個人衛生用にポット一杯の湯を受け取ることになっていた。
任務部隊TOC(戦術作戦センター)に到着して驚いたのは生活環境が酷いことだった。屋根の下で眠れる場所が全員分なかった。この地域の天気は寒く、兵士は地面の上か車両の中で寝ていた。簡易ベッドは全てFort Apacheに置いて来たが、大抵の兵士はサウジ製の発砲スチロールをマットとして使っていた。多くの場合、おなじみの明るい色をしたマットだけが兵士と地面の間にあるだけだった。戦闘に備えて、任務部隊はFort Apacheを出発する前に”身軽”になっていた。例えば、私の運転手が持っていたのは、砂漠迷彩制服1着、替えの下着と靴下3組、個人衛生用具、そして寝袋を詰めたリュックサックのみだった。任務部隊全員が、そしてこの点については師団全体が、化学防護服を着ていた。師団は1月16日の敵対行動開始後から任務志向防御態勢(MOPP)第1レベルに入り、戦争が終わり、サウジアラビアに戻るまで、8週間を超える間、ずっと化学防護服を着ていた。この服は個人衛生には便利ではなかった。綺麗な手で活性炭が縁となっている袖(charcoal-lined sleeve)を擦ると黒くなった。それでもなお、指揮系統全体で個人衛生を強調し、毎日のように行われた。

任務部隊TOCは補給を毎日受けた。補給は通常食料、燃料、郵便、その他一般物資と水であった。食料はMREで2日おきに1回温食があった。家からの小包はMREを補うのに大変喜ばれた。

VI.偵察及び警戒任務

当初は、師団G2が師団の偵察及び警戒作戦の計画と遂行を担っていた。しかし、2月3日に師団長は師団の偵察及び警戒作戦の全責任をTF 2-4 Cavへ師団長補(機動担当)James T. Scott准将の直接監督下で任せた。よって2月3日から2月20日まで、つまりGデイの数日前まで、任務部隊が警戒帯内の全部隊と作戦を統制した。任務部隊の戦闘参謀はたちどころに計画を作成し直ちに実行し始めた。

偵察及び警戒計画の最も重要な任務は二つあった。部隊を保全することと、将来の作戦を支援するため国境地帯における物理的環境と敵状況を正確に詳らかにすることである。

(#訳注 画像説明の訳)
S2のKarl Buchanan大尉が毎日の偵察及び警戒説明で報告した。左は任務部隊の計画地図。この説明用テントはTOC(戦術作戦センター)の隣。

70km×10kmの地帯を最大限覆うために、任務部隊にはさらに部隊が追加された。任務部隊がすぐさま気付いたことは攻勢が開始する前は、師団全体の焦点が警戒帯における作戦にあるということだった。そこで、警戒帯ではどんな師団資産でも使用することができた。しまにには、機動旅団の全偵察小隊が期間は様々だったが任務部隊に配されるに至った。加えて、1個航空騎兵中隊が任務部隊TOCと同位置にいて、昼間作戦で用いられた。夜間には、OH-58D が2機TOCにおり、1個AH-64アパッチ中隊が待機していた。OH-58DとAH-64ヘリには、航空騎兵に配置されていたOH-58CとAH-1にはない夜間作戦能力があった。また、AH-64には精密レーザー照射能力があり、国境の向こうの情報を得たり、確認することができた。国境付近で部隊が偵察する際には、任務部隊に民間のランドクルーザー6両が配された。これらの資材全てが国境沿いの物理的地形の特徴を識別し確認するために用いられた。任務部隊では全情報を少なくとも二つの別々の源から確かめる方針をとっていた。複数の確認をとる理由は地形の位置を確認するのは困難だったからである。国境の形と地帯の特徴を確かめるのは絶え間ない苦労だった。

(#訳注 画像説明の訳)
偵察および警戒段階では、任務部隊には1個航空騎兵中隊とOH-58Dが2機、任務部隊と連携した。これらの資産は作戦構想に統合されて、地上部隊と連携して情報収集任務を割り当てられた。航空騎兵が昼間に、OH-58Dが夜間活動した。AH-64は要請に備えた。航空資産は活動している戦区の地上指揮官に常に差し出された。しばしば、天候の状況ゆえに飛行ができなかった。

1991年2月3日2400頃に大隊長が師団主指揮所から戻ってただちに私を呼んだ。TOCで大隊長は師団長が我々に師団の偵察及び警戒任務の責任を与えたことを告げた。彼は指揮官の指導を私に与えて、翌日1000に師団長補(機動担当)のTerry Scott准将に計画を説明することになっていると伝えた。任務部隊に二日前に到着して以来、4時間ほどしかねていなかったが、かくて、さらに重圧が増したのであった。私は戦闘参謀を呼び集めて仕事を始めた。この期間に、戦闘参謀とTOC全体が有能な戦闘チームへと形作られていった。我々は計画を作成して遂行を24時間以内に始めねばならなかった。我々は夜通し働き、大隊長から最終修正を0900に受けた。師団長補(機動担当)は計画を若干の修正をして承認し、同日の1500に師団長に説明することになっていると伝えた。手短に休息をとってMREのあと、我々は師団長に説明し、彼も少々の修正で承認した。1630に、命令が任務部隊に説明され、我々は遂行を開始した。偵察及び警戒計画作成にこのような極度の時間制約のもとで成功したことでTOCの全員に自信がついた。そして、TOCの士気が高まっているのが感じ取れた。いまや我々はこなしていけることが分かったのである。計画群は遂行のため戦闘指揮に命令を渡して、任務部隊のイラクへの攻撃の計画作成へ計画者はとりかかった。

日々はあるていど定型的になった。休息が不可欠だった。大隊長と私はTOCにいないとしても常にTOCの近くにいた。完全に引き継ぎが行われるよう、私は1200と2400のシフト交代には常に立ち会った。12時間のうちには沢山のことが起きるので、次のシフトが完全に説明されるのが欠かせなかった。配されている人員が全員シフト交代時に揃うのでシフト交代を訓練を行い、指示をする場にも使った。肉体的にも精神的にも休息は不可欠だった。夜は3,4時間睡眠し、午後には短めの昼寝をするよう心がけた。加えて、一日20分間、音楽を聞いたり、手紙を書いたり、小説を読んだりすることで明確に思考し、情報を理解し、簡明に意思伝達し、決断を下す知的能力が大幅に向上した。

任務部隊のこれまでの指揮層は攻撃計画については既に大きく仕事を進めていたが、大隊長も私も作成には関与していなかったので、再び指揮官見積もり過程から始めた。計画の検討は完全な再検討となる必要は無かった。というのもPete Utley大尉がS3補としてその大半を書いたからである。いまや彼はS3として、我々が見ていくうえで助けとなる知識を伝えてくれた。が、計画は絶えず師団階梯で見直されていたので、任務部隊内でも絶えまなく再検討されることになった。

私が思うに、この最初の日々で新たな指揮官と、彼よりもさらに新任の副長との間に信頼と自信の絆が気付かれたのだった。最初の2つの説明が成功したのち、大隊長は私とTOC要員をほぼ全面的に信頼して偵察及び警戒任務の計画と遂行を任せてくれた。彼は自分で部隊へ出かけてゆき任務部隊の訓練の程度と士気を調べねばならないと気付いていた。Leney中佐は大隊の指揮にあらかじめ選ばれていたが、このようにほとんど知らせもなく、困難な状況下で突破口に送り込まれて驚いていた。すぐに部隊のところにいき、彼らを眼に科駆ればならないと分かっていた。そこで、2月5日から11日にかけて、彼は小隊から小隊へと訪問し、兵士とともに過ごすのに時間の大半を使った。また、偵察および警戒計画の支援で行われる様々な任務についての小隊長の作戦命令と事前予行を自身で閲し、しばしば留まって作戦の遂行を閲した。これらの訪問は大変意義があり、大隊長と任務部隊の自信が深まるのが見て取れた。

2月4日からは、日例師団偵察及び警戒会合がTF 2-4 CavのTOC(戦術作戦センター)で開かれるようになった。主宰は師団長補(機動担当)で、航空旅団、第1旅団、第2旅団、第197旅団、師団G2とG3、第124軍事情報大隊の代表が出席した。会合の議題は表2の通り。

表2. 偵察及び警戒会合の議題

(#訳注 議題 報告者の順に訳す)
過去24時間の作戦要約 S3
過去24時間に獲得した戦闘情報 S2
全使用可能な情報の検討と優先情報要請の更新 S2
これからの24時間の作戦について最終作戦命令を検討、推敲、送達 S3/部隊
24時間先から72時間先までの期間に遂行すべき任務についての勧奨 S3
24時間先から72時間先までの期間における情報目標指定 S3/部隊
指導および将来の作戦についての承認 師団長補(機動担当)

偵察及び警戒任務が成功するには、全活動は優先情報要請の一つに焦点をあわせる必要があった。任務が優先情報要請に関係しない場合、大抵師団長補(機動担当)は承認しなかった。

警戒帯でのあらゆる作戦はTF 2-4 Cavの統制下で遂行された。事前にTF 2-4 Cavとの調整がない場合10km縦深の警戒帯にはいかなる部隊も入れず、その期間に承認されている偵察および警戒作戦に関係する場合にのみ入れるのだった。航空旅団のOH-58DとAH-64は主として夜間作戦に用いられ、航空騎兵中隊は昼間作戦に用いられた。いうまでもなく、この期間中、TF 2-4 CavのTOC(戦術作戦センター)には静かなときは稀だった。任務部隊指揮官の意図は、広い正面で同時に作戦を調整することは困難であり、誤射が懸念されたので一度に一つ以上の任務を遂行しないというものだった。それでも、獲得せねばならぬ情報は多かったから、偵察及び警戒任務は途切れることなく遂行された。また、全師団地域は絶えずそして定期的に乗車や降車観測点により観察されていた。

偵察及び警戒計画の遂行において、大隊は任務を次の順序で調整し遂行した。
警戒帯で敵部隊を掃討。敵との接触は無かった。
国境地帯におけるイラク側の行動を観測し分類。
国境の地理的特徴を分類。
イラクの偵察資産を破壊するため限定的な戦闘作戦を遂行し、敵が師団の情報を獲得するのを阻害する。
偵察および警戒作戦を目立たぬように行うことで師団作戦が露になるのを用心する

偵察及び警戒任務は確立された教義に基づいて遂行され、TF 2-4 Cavはイラク側の探知から部隊を防護し、師団の初撃が成功するのを確実にするに必要な戦闘情報を全て獲得した。作戦中、任務部隊はおよそ10回、別々の機会に敵パトロールを観測した。が、敵を直射することはなかった。2月11日、A中隊が初の越境作戦を徒歩地域偵察で行った。よって、師団で最初にイラクに入った部隊という栄誉を得ている。

(#訳注 画像説明の訳)
(#左の画像)騎兵の厩集結地域。
(#右の画像)厩地域は騎兵が”乗馬”を世話するところである。

1991年2月14日、任務部隊はベドウィンの大家族とその羊の群れが国境を渡るのを手助けした。この家族はイラク内を数週間に渡って旅してきており、国境を超えて比較的安全なサウジアラビアへ行こうと必死に試みていた。この家族によると、食料の欠乏、敵対的なイラク人、航空攻撃により、イラク南部はあまり友好的なところでなかった。地方の情報がこの家族に話したところによると、Nisab付近にはイラク兵はいないということだったのでこの家族は任務部隊の戦区で越えようとしたのだった。これまでに東の方の別なところではイラク陸軍部隊がこの家族を追い返していた。家族によるとここ数日間、イラク軍を見かけなかったとの事だった。これはますます正確となっていく情報図を裏付けていた。我々が観測した唯一のイラク部隊は軽装輪車両に搭乗した不定期の国境警備パトロールのみだった。大変に予想しやすいソヴィエト型の敵戦闘序列に慣れている、よく訓練された米部隊としては敵の存在がないため切歯扼腕していた。戦闘参謀が攻勢を計画するにあたっては、最も漠然としていて頼りにならぬ情報すら用いてイラク側の戦闘序列計画の全体を抽出していた。米側の戦闘作戦計画はS2の車両にあった本のうちの一冊にあった敵状況から始められた。イラク側が姿を見せなかったので、戦闘参謀はこれを作り上げ、ほとんどありえそうもない事態に備えて貴重な計画時間を多く浪費してしまった。

(#訳注 画像説明の訳)
騎兵の厩で最も人気があったのはシャワーだった。水は冷たかったが量は十分だった。右手にみえる5000ガロン水タンカーから供給されていたからである。

偵察及び警戒任務は持続的性格なので、任務部隊の兵らは任務を成功裡に達成するに必要な準備状態を常に維持することは人間的に不可能だった。そこで、任務部隊は騎兵厩集結地域を設けて、小隊が大隊偵察小隊に交代して、遮蔽線から下がり、24時間休息し再編する機会を与えた。基本的には、小隊が騎兵厩に入ると、大隊整備班が整備作業を行い、車両から装備が下ろされて、搭載計画に従い積み込まれ、温食が給仕され、シャワーが設置され、礼拝が行われて、疲れた兵らが一晩丸々眠れるよう天幕が与えられた。Jean L. Soucy大隊先任曹長が直々に騎兵厩を監督し、ほぼ全員に全体に対して、あるいは個人的に話をし、士気を確かめた。Gデイ(地上戦が開始される日)が近づくにつれて不安が高まっていた。この騎兵厩により任務部隊の戦闘態勢には多大な益があった。

(#訳注 画像説明の訳)
Jean L. Soucy先任曹長(右側)は騎兵厩を担っていた。この日訪れたのはJames D. Randolph。Soucy先任曹長の騎兵厩の中の場所は自然と部隊員をひきつけた。彼には常に暖かいコーヒーがあり、励まして、相談に乗ってくれた。任務部隊にわずかな戦闘経験者であり、彼は兵のみならず士官からも助言を求められた。

1991年2月19日、”Buck” Buchanan大尉と私は師団主指揮所で最後の偵察および警戒報告をした。翌日には警戒帯の担任は機動旅団に移るので、我々は師団長と旅団長全員に説明するよう呼ばれたのだった。説明では2月3日以来の警戒帯での全活動をまとめた。引継ぎ説明はうまくゆき、私は将軍にG3時代からしてきた説明全てを思い起こしていた。師団長はこの複雑で困難な任務遂行における大隊の仕事を大変に喜んだ。説明を締めて、我々は達成したことを大変誇りに思った。TOC(戦術作戦センター)の全員が、師団主指揮所の食堂から解放してきたソーダとキャンディで成功を祝った。翌日、我々はイラクへの攻撃の準備に焦点をあわせた。

VII.攻撃の準備

1991年2月20日、TF 2-4 Cavは偵察及び警戒任務を解かれ、戦術集合地域Quarterに後退し攻勢戦闘作戦の準備をするよう命じられた。3個機動旅団が前進し、それぞれの戦区の警戒帯の統制を引き継いだ。

警戒任務を解かれて、TF 2-4 Cavは第2旅団に配属された。第124軍事情報大隊C中隊(C/124 MI)は任務部隊から解属されて直接第2旅団に配属された。さらにD/4 Cav(第4騎兵D中隊)も解属され、初動攻撃においては第197旅団に配属された。D/4 Cavは段階線Lion確保後に任務部隊の統制下に復帰することになっていた。D/4 Cav支援のため、任務部隊はD/4 Cavの通常の補給支援部隊となる”軽縦列”を編成し、副官Dave Anderson大尉の統制下に第197旅団へD/4 Cavとともに送った。これらの結果の任務編成は表3の通り。

表3. TF 2-4 Cavの戦闘作戦へ向けての任務編成

TF 2-4 CAV
第4騎兵連隊第2大隊A中隊 (M3A1 19両; M106自走107mm迫撃砲3両)
・1-2/3/GSR/B/124 MI (DS)
・第3工兵大隊(戦闘)A中隊第1小隊(直接支援)

第69機甲連隊第3大隊D中隊 (M1A1 14両)
・A/13 FA (MLRS) (9 LAUNCHERS)
・Q37/G/333 FA (TAB) (DS)
・1-4/ADA/HHC/197 BDE (STINGER) (DS)
・第3工兵大隊(戦闘)A中隊第2小隊(直接支援)

第3工兵大隊(戦闘)A中隊(-)(直接支援)
1-3/1/4B/1-5 ADA (STINGER) (DS)
1-4/2/48/1-5 ADA (STINGER) (DS)

SEC/7/25 CHEM (RECON-F) (DS)
戦術航空統制班 (直接支援)
大隊縦列(-)
LOGISTICS SUPPORT TEAM(LST) 724 SB (MAIN)
MAINT TEAM 224 SB (FWD)
MAINT TEAM 197 SB (FWD)

注記: D/4 Cavは任務部隊から解属され第197旅団に配属。段階線Lion到着次第任務部隊に復帰した。
第4騎兵D中隊(M1A1 9両;M901TOW 6両;M113 6両;M106自走107mm迫撃砲 3両)
3-4/3/GSR/B/124 MI (DS)
第3工兵大隊(戦闘)A中隊第3小隊(直接支援)
大隊縦列(-)

4日間の期間に、任務部隊は事前予行を遂行し、最終作戦命令を送達し、第2旅団の事前予行に出席し、師団長の説明と士気高揚の講話を受け、全乗員用と個人火器の試射場を開設し手運営した。また、部隊員の多くは家に最後となる電話を掛けた。事前予行は大変重要であり戦闘における大隊の成功に計り知れぬ貢献があった。1月早くに任務部隊を編成して以来、任務部隊階梯での機動は行われていなかった。この状況を正すため、2日間集中して、昼夜を通して、任務部隊は運動技術と操練をした。これらの事前予行で任務部隊の全員が機動、戦闘、任務を完遂する能力に自信を持った。さらに任務部隊は第2旅団で、部隊員抜きでの夜間戦術演習(#TEWT tactical exercise without troops)に参加し、指揮官は計画に自信を抱いた。最終事前予行ののち、各部隊は個別集合地域に移動し戦闘作戦の準備を完成させた。これにはM3A1の25mm砲までを含む試射場の開設も含まれていた。戦車主砲の試射は認められなかった。最後に2月21日、師団長が任務部隊指揮官を訪問して、計画を検討し、会合を激励の講話で締めた。出席した全員は”大きな構図”を理解し師団長に対する完全な信頼と自信という確信を得た。出席した全指揮官はこれからの任務への備えがあるという静かな自信を感じた。その夜、任務部隊指揮官はTOC(戦術作戦センター)に集合し最終図上演習(MAPEX)を行い報告(back-brief)をした。

(#訳注 画像説明の訳)
TF 2-4 Cav主指揮所の兵ら。ある最終事前予行で主指揮所は砂漠の中に木をみつけた。砂漠でこのような大きさの木を見るのは稀だったので、我々はこの集合写真を撮った。

1991年2月21日、最後の任務部隊事前予行のあとTOCは留まって下士官らが小火器試射場を設置していると、Soucy先任曹長が重要な人物を伴って到着した。彼の車両の後席には、1990年の夏にテキサス州フォートブリスにある上級曹長大学に入るため大隊を離れた2-4 Cavの古参Cabrerra上級曹長が座っていた。大隊に配属されている間にCabrerraは大隊の3個の中隊の先任曹長を様々な期間にやり、そして作戦上級曹長も勤めていた。大学を卒業したばかりで何とかして大隊への道をみつけたのだった。彼の話はそれだけで完全な物語だった。彼の到着は、個人の精力と真の騎兵の伝統である自分の連隊に戻りたいという願いによるものであると言ってよい。最初、私はこの古参に懐疑的だったが、すぐに彼はこれから繰り広げられる場における立役者となることが分かった。彼はすぐさま、我々の組織と戦闘への準備を新たな目で眺めた。翌日、TOCの全車両から装備を降ろして搭載計画に従って再び積み込んだ。我々が絆を深めたのは二日目の夜、Cabrerra上級曹長と私とFauver1等軍曹とで夜中一杯かけて地図にアセテートを貼り、集めたときだった。彼は本物の戦士であり、彼が来たそのときに来てくれたことを神に感謝した。彼の新たな視点により、これまで30日間以上も戦闘作戦を遂行していたTOC要員達は、あらゆる細々としたことも片付いたと確信できた。言い換えれば、彼は我々の人生で最も重要な戦闘前検閲を計画し、遂行し、監督したのだった。

計画

旅団の他部隊が攻勢作戦の計画に努力の大半を注いでいるとき、TF 2-4 Cavは師団の偵察及び警戒作戦に決定的に関与していた。従って、計画努力は指揮、統制、通信(C3)機能とその他作戦に不可欠な基本的な戦術事項に集中していた。任務部隊の指揮官達にとって最大の課題はどの二つの部隊をみても似ていない、この非教義的組織を任務を遂行するのに必要とされる協同作業のできる一体性ある部隊へと作っていくことだった。幸いなことに、偵察及び警戒任務を通じて、任務部隊は協同作業の方法を作り上げ、各機動中隊の能力と限界についての理解を深めていった。

任務部隊は1991年2月13日と14日の師団図上演習で明確にされた師団長の指導に従った。北に進め!「我々は決して戻らぬ;何をしてよいか分からぬときは北へ、渓谷目指して進み続けよ!
小隊階梯で事前予行せよ。
誰がどこにいつ行くのかを確認せよ。
出撃線では傘下部隊を厳格に統制せよ。
Fm指揮網を維持せよ。
北に行くに従い、後方境界を移動させよ。
射撃規律を維持せよ。地形に向けて撃つな、敵に向かって撃て!
命令に従え!

TF 2-4 Cavは任務を完遂した。が、常にそうなのだが、計画と実際の作戦は一致しない。
作戦は5段階で計画された。(表4と地図2、3、4、5を参照のこと)計画を立てる上でH時刻は仮にGデイの0600とされた。

第V段階終了後は、任務、敵、地形、自部隊、可能時間(METT-T)に応じて、任務部隊は以降の任務を遂行するために部分命令(FRAGO)を受領することになっていた。任務部隊の図上演習では任務部隊をユーフラテス川渓谷に東のバスラを向いて進入する任務、つまり第Ⅳ段階をやり遂げることに重点が置かれた。大隊長は、任務部隊が師団の先頭部隊をユーフラテス川渓谷へ、大変な難地形を越えて連れて行くことができたらば、任務の大部分は達成したことになると確信していた。指揮官が第Ⅱ段階と第Ⅲ段階に集中したのは、第Ⅳ段階と第Ⅴ段階では敵状況が不明確であることが予想され、かつ任務部隊の主要な任務は先導にあると考えていたからだった。

(#訳注 表の訳)
表4. TF 2-4 Cavの作戦計画 (OPLAN)
第Ⅰ段階
Gデイより4日前の1200:その場で交代を遂行し警戒帯を戦区の旅団へ引き渡す。TAA(戦術集合地域)Quarterを占領し先頭作戦の準備をする。D/4 Cavを第197旅団へ転属する。

第II段階
Gデイ前日2359: 戦闘経路Yankeeを経路偵察し国境の北側約10kmに位置する作戦域Spurを占領。命令があり次第、経路偵察を境界線Lionまで継続(地図2参照のこと。)
重要任務:
Gデイ前日1900:戦術集合地域Qarterからイラク国境と戦闘経路Yankeeとの交差点付近の攻撃陣地へ移動。
Gデイ前日2359: 出撃。
Gデイ 0230: 国境から約10kmの段階線Opusへ運動。全大隊(戦闘縦列を含める)が出撃線を出る。第13砲兵A中隊が準備を整えたとの報告があり次第、大隊行軍隊形で段階線Opusから前進。
Gデイ 0430: 作戦域 Cav”A”を段階線Colt沿いに占領し、弾薬燃料補給。
Gデイ 0600(H-hour):本隊が出撃。TF 2-4 Cavは段階線Coltから前進し、段階線Lionまで偵察任務を続行。
Gデイ 1400: 段階線Lionに沿って前方遮蔽幕を展開。

第III段階
命令があり次第、作戦地域Saberの段階線Jetから段階線Vikingまで戦闘経路X-Rayの前方で師団の左翼に遮蔽幕を展開するため運動。第197旅団が攻撃陣地Kellyへ移動する間、その左翼を守る。戦闘経路X-Rayを段階線Jetから段階線Vikingまで確認(地図3参照のこと。)
重要任務:
第2旅団が目標Grayを奪取するため前方へ超越するのを助ける。第197旅団が段階線Lionに到達次第、第4騎兵D中隊の配属を受け入れる。第1旅団が目標Redに向けて戦闘経路Whiskeyで前方へ超越するを助ける。戦区中央で遮蔽幕を撤収する。作戦域Saberへ運動し、北西のTallil航空基地に向けて遮蔽幕を占領する。第197旅団が攻撃陣地Kellyを占領するため運動する間その左翼を守る。

第IV段階
第197旅団が戦闘陣地101を奪取すべく攻撃する間、その左翼を守る(地図4参照のこと。)
重要任務:
第197旅団の左翼部隊であるTF 2-69 機甲と連接を確立。第197旅団との連接を維持するため一連の戦闘陣地を占領し、第197旅団の側翼を脅かす一切の敵部隊を撃滅する。

第Ⅴ段階
戦闘陣地103で第2旅団と連接を確立。第2旅団が目標Orange(Jalibah航空基地)を奪取すべく攻撃する間、南翼に遮蔽する。南の第3装甲騎兵連隊(3 ACR)と連接を確立(地図5を参照のこと)。
重要任務:
第4段階の遮蔽幕を撤収。戦区中央に任務部隊集合点を占領。第2旅団および第3装甲騎兵連隊と連接を確立。
(#訳注 表4の訳はここで終わる)


任務部隊は師団主攻をユーフラテス川渓谷へ先導することになっていたから、指揮群はCENTCOM司令官の意図を作戦級で確実に理解することに時間をかけた。総司令官の意図を注考え抜いて分析し、師団長の意図の理解と総合することが、任務部隊が任務を完遂する上で欠かせなかった。さらに任務部隊の指揮官らにとって重要だったのは、この分析によっ
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コメント
この記事へのコメント
とりあえずこんな感じで
出典は旅団の論文と同じくCSI。


編制関係の用語を拾うため
太平洋戦争陸戦概史 林三郎著 を
見つけて読み始め。
#HouseのCombinedArmsを発掘。
これでH、Jシリーズの編制が機甲、歩兵とも師団ごと分かるはず。
DuPuyの論文集もあるんですが、TOWと
アクティブディフェンスの話より
細かい流れの戦記のほうが補完に良いかと思いました。 
2004/12/03 (金) 00:08:37 | URL | SBCT太郎 #-[ 編集]
Vまで下訳終わる
編成表は煙幕中隊?が第5小隊と書かれているのに気付いてついに諦める。FMでは中隊あたりの小隊が5つとなっている例はなく、戦時編成で小隊を集めてきていたのかもしれない。
 その後化学防護衣の訳でまごつく。
サープラスストアで売っているのだが
どうも、活性炭か炭素繊維かで縁取った服だったみたい。それで指で擦ると黒くなるらしい。
 第24歩兵については、最近の州兵のトラックの装甲についての質問で師団長がメディアにコメントの形で出ていた。確か湾岸戦争の戦記にも第24歩兵師団の部隊の奴があった。セイモア=ハーシュは休戦後の戦闘を批判する記事を書いてたけどどうなんだろう。
2004/12/12 (日) 02:25:30 | URL | 太郎 #-[ 編集]
表1はちょっと編集の手間を惜しんでます
表1については確定している
各中隊を除いてあとで原文に戻す予定。今は途中報告ということで作業途中の状態でUPしました。
2004/12/12 (日) 02:32:40 | URL | 太郎 #-[ 編集]
Ⅵまで下訳終わる
ランドの論文は以前不明。

モスルは依然厳しい状況の模様。
タルアファルでの騎兵大隊の活動が
写真入で紹介されているサイトがストライカーニュースに出ていました。

事故の記事で故人の話、高校と軍に入る前の職、住んでた地域を書くのは知人に伝える役割を果たしているのだと気付いたり。
2004/12/14 (火) 02:18:26 | URL | 太郎 #-[ 編集]
Ⅶまで下訳終わる
やっと地上戦開始。

On Pointで国道8号沿いにきた
タリル航空基地にサウジ領内から
進撃した話であることに気付く。
1991の第24機械化の古参兵は2003の
第3歩兵師団にどれくらい居たんだろう。
2004/12/16 (木) 02:01:53 | URL | 太郎 #-[ 編集]
繁みから抜け出す
第197旅団がTallil航空基地に機甲強襲をかけるあたりで、再編したり、繁みにM3が突っ込んで回収車両も嵌って
動けなくなるあたりを訳してます。
 実は本格的な戦闘、例えば73イースティングスの戦いみたいな話は出てこなかったり。ひたすら砂漠を飛ばす話になってます。残り少ない燃料を気にしながら。
2004/12/19 (日) 16:05:46 | URL | 太郎 #-[ 編集]
いよいよ停戦命令近づく
停戦命令のあとサウジに帰還して国に帰るまで書かれているのでまだ先はあります。

 ちなみにイラク戦争でも道に迷ったのか、決断をまずったかで1個旅団が
カルバラを抜けるのに手間取ったことがあるのでそれを考えると師団偵察大隊が繁みに突っ込んで時間を食ったのもやむをえないかなぁと。
2004/12/20 (月) 04:43:34 | URL | 太郎 #-[ 編集]
troop commander
指揮群と命令群の違いも不明。
感触としては大隊の指揮系統に連なる全員、小隊長と小隊軍曹以上か。

troop commandersは部隊指揮官とはじめ訳していたが、後に中隊指揮官へ変更。

#HDD不調のため細切れにUP。原因不明。5年ものだから寿命か。
2004/12/20 (月) 22:44:11 | URL | 太郎 #-[ 編集]
作戦要約に入る
やっと作戦の経過が終わり、作戦要約に入りました。今の分量は70ページ中62ページ。初めは90ページくらいありましたが、訳すに従い分量が減ってゆきます。英語から日本語に置き換えるだけでそれだけ情報量が落ちているということです。恐ろしいです。
2004/12/24 (金) 17:22:10 | URL | 太郎 #-[ 編集]
結論に入る
クリスマスおめでとうございます。
なんとか今日中には終わる感じです。
モスルの爆発は自爆テロの模様で
余波が続いています。次第に戦死者が
どこの部隊で4名とか、州兵の工兵で2名とかいった感じで出ています。姓名はまだ発表されていないようです。
2004/12/25 (土) 01:03:31 | URL | 太郎 #-[ 編集]
えぇと延びました
newという言葉を、新任とすべきなのに
やっと思い当たる。

observeの訳が難しい。o/cって、査閲/統制官か?いや、上官がこう見ているんだけど監督はsuperviseちゅうのが別にある。monitorとも違う。注視するって感じか?見届けるとしたがやはり戦記物を読まないとだめですね。
2004/12/27 (月) 21:31:58 | URL | 太郎 #-[ 編集]
何とか終わる
クリスマスまでに終わる予定だったんですが、次を考えるのに気を取られました。

今のところICGの提言かLWIの空地統合の話の予定です。どっちもできればやったほうがいい感じですが。他には12月6日のクウェートでの州兵とラムズフェルド国防長官の対話もある意味重要なのですが(補給部隊に護衛戦力をという話に繋がる)、ちょっと遠いかなぁと。
2004/12/27 (月) 23:46:35 | URL | 太郎 #-[ 編集]
誤訳? 土手道
ルメイラの戦いの舞台である
causewayは土手道でなく橋の可能性有り。
staff sergentは二等軍曹。
sergentは三等軍曹。
2005/02/03 (木) 00:31:40 | URL | 太郎 #-[ 編集]
(P)の意味
いつも勉強させてもらっています。(P)はpromotable、我が国軍では(進)、進級予定者と翻訳して使ってます。
2007/03/12 (月) 22:19:07 | URL | A Major, ROKA #.yq01BdU[ 編集]
コメント有難うございます
 コメントありがとうございます。拙訳を読んでいただき本当にありがとうございます。
ROKAということはお隣の韓国の陸軍の方ですね。
2007/03/16 (金) 09:59:37 | URL | SBCT太郎 #-[ 編集]
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