SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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タルアファルにて情報提供者が拘束者の命運を握る
出典 washington post
URL http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/09/12/AR2005091202040.html
原題 Informants Decide Fate of Iraqi Detainees
U.S. Military Relies on Guidance of 'Sources' in Tall Afar
日時 2005年9月13日
筆者 Jonathan Finer 同紙外報部
発信地 イラク タルアファル 9月12日
内容 
月曜、覆面をしイラク陸軍の制服を着た十代の若者が拘束者400名の間をゆっくりと歩いては顔を見定めて簡単な手振りで宣告を下していた。あたかも剣闘士の運命を決めるローマ皇帝のように。

以下全訳
親指を下に向けると容疑者は内乱者ではないことになり米軍は釈放する。親指を上に向けると、その者は鉄条網で囲まれた区画から連れ出され、テープやプラスチックで手錠をされたままトラックに乗せられて尋問のため軍事基地へとトラックで運ばれる。

”ここにも悪党がいる”と米人通訳が叫んだ、覆面のイラク人が黄色いdishdasha(伝統的な外套)を着た男性を選び出したのである。男性は頭を振りトルコ語で抗議した。ある拘束者は免れてほっと安心して心臓の上に手を当てた。

これは10日目に入ったタルアファル侵攻の月曜の有様である。Sarai地区をほぼ何事も無く2日間パトロールした後のことであった。Sarai地区では内乱者が戦闘に備え集結していると指揮官らは予想していたが無人となっていた。米軍およびイラク軍は午前に既に一旦は掃討ずみの北へと転じ、兵役年齢にあり、包囲を潜り抜けたと思われる男性数百名を発見した。

そして、52名の男性がこの北西部の都市の南7マイルにあるCamp Sykes行きの平床トラックの開け放たれた後部に乗せられた。昨年11月のファルージャ以来、都市に対する最大の攻撃となる、当地での内乱者に対する攻撃では、激しい衝突は初期に、数千の米軍およびイラク軍が都市を強襲し米軍ジェットが仮借なき爆撃を行ったときのみである。

それ以降、タルアファルの大部分をほぼ1年にわたって支配していた内乱者らは逃走したか、あるいは武器を置き市民に溶け込んだと指揮官らは語る。ファルージャのときのような強襲でなく、この侵攻では、新たな機会を得て戦うため内乱者が身を隠すのを防ぐため市全域に渡る捜索が大半となった。

任務に関する訓練をほとんど受けていない兵らは証拠を収集し、目撃者や容疑者に尋問し、手掛かりを追うといった本来ならば警察に割り当てられる役割を強いられた。市で最も流血が激しい一帯のほとんど全ての家屋を捜索し、若い男性数百名を、中には武器や内乱側の文書を所持していたという理由で、また中には米兵が’情報源(sources)'と呼ぶ地元の情報提供者の風聞のみで拘束した。

情報提供者の多くはこの20万名を超える人口の都市の住民で現在イラク軍に勤務している。それ以外では家族が内乱者に殺害され近所から内乱者を追放したいと願っていると語る者もいる。情報提供者と協働する米兵は彼らの背景や動機をほとんど知らぬこと、場合によっては名前すら知らぬこと、そして彼らの信頼性は非常にまちまちであることを認める。情報提供者により名指しを受けた者の中には、名指した側は部族的あるいは宗派的な復讐を行っているだけだと言うものもある。この点についてはイラク治安部隊にも同様の非難が向けられている。

情報提供者は”(訳補 内乱者を)より分ける過程の最初の重要な一歩だ”とタルアファル侵攻を主導した第3機甲騎兵連隊Eagle中隊長であるAlan Blackburn大尉は語る。”彼らの言うとおりにやるというのは明らかに無理だ。というのも彼らは沢山間違うから。が、我々はこの地を彼らほどには知らないので、彼らがいるのは助けになる”

米軍は1年前にもタルアファルに侵攻したが、やがては撤退し内乱者が戻り市の支配を再び握った。月曜日に、イラクの主要な内乱者集団の一つであるイラク・アルカイダ(al Qaeda in Iraq)を率いるヨルダン生まれのAbu Musab Zarqawiはインターネットで、米軍は”何度も入ろうとして失敗したすえに、タルアファルに対する攻撃を繰り返している、そして獅子らは幾度も米軍に屈辱と敗北の苦味を強いてきた”との声明を流した。

ここ数日、クルド人ペシュメルガ民兵を主とするイラク軍は作戦を主導し、梳かされていない長髪と無精ひげが目立つ米特殊作戦部隊もいつもように加わった。

午前7時を回ったころ、同軍は隣接するHassan Koy地区とUruba地区に雪崩れ込み、主要道路に米軍が設置した仮設の囲みに兵役年齢の男性を全員連行して拘束した。米軍は50名程度の男性を収容できるように鉄条網で囲っていた。が、一帯から連れ込まれる拘束者の数が多く、鉄条網をさらに伸ばしていくうちにやがては拘束区域は一街区にまで広がった。

米軍指揮官らは作戦中のクルド部隊の活動を称賛するが、個人的にはクルド部隊の戦術が時として強圧スレスレであるという懸念を示している。ペシュメルガは隣国トルコ政府と戦闘しているクルド人叛徒(rebels)を支援しており、長年ペシュメルガはスンニ派アラブ人が支配していたサダムフセイン政権の標的となっていた。タルアファルの住人の大多数はスンニ派トルクメン人である。トルクメン人はトルコ人と民族的に近縁関係にある。

月曜遅くの別の掃討でイラク軍部隊が潜伏場所と思われるところを強襲し内乱者との衝突の結果、40名を殺害し、27名を逮捕したとAP(the Associated Press)が報じている。

午前の作戦の前夜の説明で、第3機甲騎兵連隊第2大隊長のChristopher Hickey中佐はペシュメルガと協働している特殊作戦部隊の兵らに住民を離反させるのを避けるようにと指示(instruct)した。

"もし我々が行って彼らの家を壊せば、彼らを失うことになる”とHickey中佐。

午前8時までには400名近くが集められ、路肩の土埃にしゃがんだり座ったりしていた。男性二人は顔から血を流し、緑のdishdashaには赤い染みができていた。

”彼らが父を掴もうとしたから、俺は言ったんだ’(訳補 父は)年を取っている。連れて行く必要無い’とね”と一人が言う。彼の上唇と右耳は腫れ上がり血が出ていた。”奴らは拳と小銃で我々を殴った”

男性らの多くの手はプラスチック製手錠でとてもきつく縛られ、血流が止まっているほどだった。米兵は縛めを切って(訳補 手錠代わりに)男性らの手を厚い緑のテープで巻いた。

特殊作戦兵士らは、政策上から報道には名前を明かさないが、ペシュメルガがある家でフセイン政権時代の陸軍元大佐を発見したと語った。が、米兵が拘束区域中を探しても元大佐は見つからなかった。クルド人戦士の一人が直接クルド人指揮官のもとへ連れて行ったと話した。

”すぐさまここに連れてきてくれ”と特殊部隊兵士。”かれはここで取り扱いを受けることになっている。米側によって、他の全員と同じく”

およそ2時間後、情報提供者が現れた。タンの迷彩服に防弾着(flak jacket)、緑色のスキーマスクと緑色のヘルメットを着たその情報提供者は、このあたりの出身で20歳よりも若いと語った。

”私がこれをやるのは恐怖と暴力がタルアファルから去って欲しいからだ”と彼は匿名を条件に語った。

米側通訳とともに、彼は群集を見定め、各人の運命を決めるのには2秒も立ち止まらなかった。けして声を大にしては話さず、ときおり通訳に囁くのみである。

集団から容疑者を52名抜き出すと、より時間をかけて各人を調べてその活動についてより詳細な情報を伝えた。紫のシャツと汚れた白のズボンを着た唇の割れた男性を”首切り人”と指し、少なくとも10名は殺害していると述べた。

”首を切る”と第3機甲騎兵連隊Eagle中隊Blue小隊長のNoah Hanners大尉は言い、青のマジックで男性の前腕にそう記した。

”君は特別扱いを受けるよ、親友。おめでとう”とHanners大尉。

情報提供者と話し合ったのち、通訳は身分証明書を持っていないその男性のTシャツにこう書いた。”名前はNafeだが、別な名前を名乗っている”

別の4名がemirという言い方で呼ばれる地元内乱細胞のリーダーと指し示され、腕に”emir"と書かれた。男性数名には腕に鷲の刺青があったが、情報提供者によると彼らはFedayeen Sadam、フセインの子息Udayが統べていた暴力的と噂されていた民兵の一員だったことを意味するという。情報提供者がある男性の刺青を叩くと、男性は抗議した。するとあるイラク兵が手の甲で顔を打った。

”彼らを打つな”とHanners大尉が注意した。”我々はそんなやりかたはしない”

米兵の中には拘束者に”Abu Ghraibと言えるか”と尋ねてからかう者もいた。Abu Ghraibとはバグダッドの西にある刑務所で昨年には囚人虐待の写真が露見している。

”いいや、グアンタナモだ”と拘束者の一人が笑って応じた。グアンタナモとはキューバにある米軍刑務所でテロリスト容疑者が収容されている。”イラク軍やイラク警察には行きたくないだけだ”

”お前の情報源は良くない、皆無実だ”と灰色のdishadashaを着ている拘束者。彼は40マイル東にあるモスル市の学生だと名乗った。”我々は全員スンニ派だ。それで奴は我々を選んだんだ。かれはシーア派だ”と情報提供者について彼は言う。Hanners大尉は情報提供者の質は非常にまちまちだと述べる。”中にはこちらが聞きたいだろうと考えて話しているように思えるのもいる。”と同大尉。”また良い情報をもたらす者もいる”

別の兵が、批判ゆえに指揮官から懲罰される可能性があるので匿名を条件として語るに、情報提供者の成果についてはさらに否定的な見方をしていると言う。”ほとんど何も情報提供者からは得られない”と同兵士。”思うに彼らは単に別な部族やお金や何かを借りている相手を選んでいるだけだ”

トラックに乗って基地に戻る前に、クルド兵らは拘束者の背後に整列しデジタル写真を撮るのにポーズした。彼らは食料とボトル詰水を道の反対側に集まっていた子供らに投げ与えた。子供らの多くの父親は拘束されていたのだった。

子供らの中には贈り物を拾うのもいたが、数人は掴んで去り行く軍の車両へと投げた。トラックが一台たちどころに止まり、ある兵士が降りて拳銃を子供達に向けると子供らは散り散りとなったが、それも彼が去るまでの身近な間だけだった。

兵らによると近所の子供らの中には彼らをCamp Sykesへと運ぶトラックがつくまでの間に拘束者らに食料や水をあげるものもいたとのことである。長い紫色の着物と白の頭巾の女性が残っている兵らにトルコ語で叫び、ほかの者が彼女の背後の集まり始めた。

”手に余るまで30分ある”と現場をみて、Herbet Gadsden一等軍曹。”家族が手におえなくなる前にここから追い払わなねばならん”
"I give this 30 minutes before it gets out of hand," said Sgt. 1st Class Herbet Gadsden, surveying the scene. "We have to get these people out of here before their families go nuts."

正午にトラック2台が到着した。兵らは拘束者を整列させ、デジタルカメラで各人を撮影して載せた。家族の群れは家へと徐々に帰っていった。”また友人を作った一日だったな”と頭を振りながらHanners大尉。

バグダッドのBassam Sebtiが本稿取材に特別協力
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