SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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12月29日のモスルでの戦闘
出典 NY Newsday.com
URL http://www.newsday.com/news/nationworld/world/ny-wobatt0103,0,3976293,print.story?coll=ny-homepage-multimedia
砦を守り、友を自爆攻撃で失う
イラク、モスルのTampa戦闘外哨にて戦友らの創意による阻塞にも関わらず
米兵が自爆攻撃で戦死

筆者 DIONNE SEARCEY 本紙特派員
2005年1月3日 イラク モスル発

Michael Kreuser特技兵は水曜の午後、、米国陸軍が戦闘外哨に転じた茶色のアパートの中で寝袋の中に丸まっていたそのとき、大きな爆発の揺れで目を覚ました。

砂嚢が若い衛生兵の上に落ちてきて、彼は起き上がろうともがいた。部屋中の漆喰の埃で見通せず、床を手探りで衛生キットをみつけて片方の軍靴を履いて、悲鳴の聞こえた三階のバルコニーへと急いだ。


Oscar Sanchez一等兵が床上に、破片ガ当って出血していた。Kreuserは、靴下をSanchezの血塗れにしつつも、別の兵と一等兵をホールへと引き摺り、シャツを切り開けて蘇生を試みた。

「簡単に死なせるつもりはなかった」とウィスコンシン州West Bend出身22歳痩身のKreuserは語る。

が、まもなく、Sanchezは亡くなった。自爆者による高度な攻撃での唯一の犠牲者だった。Sanchezはカリフォルニア州Modesto出身19歳、警衛任務中で、なにか不審なものがあったら自動小銃でよく狙いをつけられるようにと椅子の上に立っていたところに、黒衣を纏った内乱者が1500ポンドの爆発物を積んだトラックを運転して、バルコニーのほぼ真下のコンクリート阻塞に突っ込んだのだった。

Kreuserはあの日を思うと、非合理な憤りがあふれだす。彼がTVゲームで負かし、ばかなラブソングを歌ったことをからかった戦友を助けられなかったことで自身を責める。Sanchezにあの間抜けな椅子から下りるように言わなかったことで他の兵士を責める。モスルで最も危険な地区の真ん中にいきなり兵を駐留させたことで上官を責める。

Kreuserはそんな考えは馬鹿げていることを自分に思い出させねばならない、苦々しさと怒りを感じるのは止められない。「こうだったらというあらゆることが心に浮かぶ。が、怒りを向けられるものは何もない。あそこは本当に安全だと思っていた。」

丁度2週間前、ティグリス川沿いのこの都市を担任する軍将校らが、市の西部のTampaと名付けられた交通量の多い通りを通るごとに銃撃や路傍爆弾にあうのは沢山だと決した。彼らは道に面した大きな4階建てのアパートを見つけて、不法占有していた家族に500ドル支払って立ち退かせた。彼らは新たな要塞を戦闘外哨Tampaと名付けて引っ越した。

陸軍は狙撃手をモスル西部の5つの外哨のうちの一つであるこの建物の全ての角に配置し、絶え間なく屋上を巡回させた。屋上からは新たなSaddam Mosqueになるはずだった複数のドーム全体や、1年半前に兵が必要な家族に灯油を手渡した白い穀物倉庫塔が見える。この高みからは、内乱者の隠れ場所となってきた近隣の狭い路地も見通せる。

外哨が設置されると、一団の兵が正面にストライカー装甲車を駐車して、建物をコンクリート阻塞で囲んだ。計画では、敵を観測し脅すこと。そうすれば事態は沈静化するだろう。

かわりに、陽気な午後に、内乱者は複雑で細部まで計画された攻撃を仕掛けてきた。攻撃には、大型トラック爆弾のみならず、現場へと急ぐ米軍に対する大型仕掛け爆弾も含まれ、そしてその間中一帯に迫撃砲とRPGで撃ってきた。Ansar al=Sunnah Armyと名乗る軍事集団が名乗りを上げた。

結局は、陸軍が勝利し、ジェット戦闘機にミサイルを撃つよう要請し、戦闘員25名を殺害した。戦闘外哨Tampaの正面は傷ついたが、今も立っており、第24歩兵部隊(原文ママ)第1大隊の兵が占領している。戦闘で米兵20名が負傷した。多くは首や顔面といった柔らかく装甲をまとっていない部位に火傷のような破片傷であった。

これらの兵は、岩の下に隠されたり、捨てられた車のトランクに積まれており、陸軍の車両が通過すると起爆する遠隔操作爆弾で近頃文字通りの地雷原となっているモスルの地区を巡回し続けている。

兵らはロータリーや公共の地帯にさらされているイラク人の遺体を100以上発見している。多くは米人と協力している地方の警察や軍隊の一員であるという理由で処刑されたものだ。11月の早くに内乱者が警察署を攻撃し多数の警官を殺害、脅し、今月末の議会選挙の登録用紙で一杯の倉庫を焼いたときは、米軍が清掃(#clean up)を手伝った。

そして兵の多くは12月21日に自爆攻撃者が警備をくぐって、このCamp Marezで、混雑していた食堂に入り爆弾を起爆させ22名を殺害し多数を負傷させたとき、その場にいた。

モスルでの再建事業は停止している、契約業者が怖がって働かないからである。市民は陸軍の車列が近づいてくると怯えて、シャッターを下ろして商売をやめ低い平屋の家へと駆け込む。ガソリンスタンドにはAnsar al-Islam軍事集団のポスターが貼られ、選挙で投票した者は首を切られると警告している。

米軍士官の中には、治安状況の悪化を11月の海兵隊の侵攻後ファルージャから逃亡してきて、モスルで活動を継続している戦闘員に帰する者もいる。が、内乱者は多くは地元で育った、地方のスンニ派バース党員とイスラム教の狂信者で、米軍の軍事的示威が低下したことで活動の自由を得ているのだと考えている。昨年の1月には米軍2万名がモスルを巡回していたが、今やそのやっと4分の1がいるのみである。

イラク北西部の部隊を指揮するCarter Ham将軍によると、増援が来る途上にあるとのこと。他の部隊の兵が、より暴力的な期間になると予想されている、選挙に向けての増援として警戒を手伝うことになる。

それまでの間、1-24や他の陸軍部隊は観察と小火器でかなりの効をあげるのを学んだ敵との戦いにある。水曜日の午後、戦闘外哨Tampaは戦闘の爆心地(ground zero #911WTCテロでも使われた言葉)となった。

ワシントン州フォートルイスを基地とする1-24の指揮官Erik Kurilla中佐は、Tampaは成功だと考えていると語る。情報関係によると外哨の存在だけで内乱者が調整し自由に動く能力を妨げているとのことだ。

数マイル離れた厳重に防御された基地からTampaheSanchezや他の兵士は交代でいっていたが、無防備な目標ではないとKurillaは言う。「痛ましい損害だ、どの兵の損失も同様だ」とミネアポリス出身38歳は語る。「どの死もフォートルイスに留まっていれば、留まって壁の後ろで集っていれば、避けられただろう。敵に戦いを仕掛けることでも、同様に命を守れるのだ。」

Kurillaは水曜の攻撃では罠に陥った。彼のストライカーの小さな車列は部隊を調べ、毎週のように情報報告では攻撃が迫っていることを警告して外哨をちょうど出たばかりだった。彼は外哨の兵に警備を増すように指導していた。

爆発で衝撃波がKurillaの車両にも届いた。車列は外哨へと引き返し、突然、路肩にエンジンを掛けて停車していた乗用車に乗っていた男性が発進し、爆弾で一杯の車をストライカーにぶつけた。爆発で兵の中には床に倒れこむ者もいた。

埃が晴れると、Kurillaが気付いたことは、どうやってか、彼らが通過してから数分で、内乱者は通り沿いに爆弾7発を仕掛けたことだった。

「通りじゅうにIEDがある!」とある兵が叫んだ、仕掛け爆弾という軍事での用語を使っている。

その頃には、弾丸の飛翔音が至るところでしていた、米兵の撃っているのもあったし、伏せて待ち構えていた内乱者のもあった。数個の爆弾の導火線をある米兵が撃ち、作動しないようにし、別の米兵が地雷2個を撃って起爆させた。

やっと、Kurillaの車列はTampaに到着した、Tampaは迫撃砲とRPGの砲撃を受けており、路上には5フィートの深さの孔が空き、そして爆弾を積んでいたトラックの黒焦げで捻じ曲がった金属の残骸があるのを見た。

ジェット戦闘機が轟音とともに4機頭上に現れて、内乱者の立てこもる車や低い建物を掃射し、旋回して目標にマーベリックを撃ち込んだ。その正確さは驚くべきもので、付近の軍事車両の中に座っていた者には安心だった。

戦闘は止んだ。死んだイラク人を乗せた車や瓦礫の散らばった通りをあとにCamp Marezに戻る部隊もあった。ピンクの陽射しに陰となった兵らは戦闘で疲労した車両が基地にのろのろ戻るのを見守った。ストライカーのうち2両は牽引しなければならなかった。別の一両のハッチからは煙が流れていた。ある一両はバンパーの下に鉄条線を引き摺り、別の一両は前輪を吹き飛ばされて走っていた。

Kurillaの車列中のVictor Brazfield二等軍曹は、自爆車攻撃の目標となったストライカーに乗っていた彼の親友Richard Vasquez三等軍曹22歳を心配した。戦闘中にBrazfieldのヘッドホンにKIA、行動中に兵が戦死したことを伝える報告が流れていた。

夜になるころ、Brazfieldは、負傷者を降ろすため陸軍病院へと急ぎ、そこでVasquezが別途に横たわり、意識があり、目に包帯をしているのを見つけた。

「彼を見たとき」、Brazfieldは言う、「私はただ泣いた。」

が、翌朝、彼は別の友人が亡くなっていたことを知った。Sanchezである。

「彼は俺のJoeだった」「彼は私の兵だった。」

彼は俯いて歩み去った。

Copyright © 2005, Newsday, Inc.
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コメント
この記事へのコメント
不明な部分
He was my Joe
He was my soldier
が不明。後ろは私の部下だったという
ことだろうか。
戦死した兵の名前はOscar Sanchez
だけどJoeと呼ばれていたのか。
2005/01/05 (水) 19:39:25 | URL | 太郎 #-[ 編集]
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