SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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CSI 旅団 第3部
現代の旅団 1991-2003


増強旅団
1970年代初期、陸軍は”Total Army”構想を掲げていた。同構想では予備役部隊である陸軍州兵と陸軍予備役は動員された場合、計画された任務と役割を防衛態勢の中で完全な一員となるとしていた。 “Total Army”構想には予備役部隊の即応度が募集、交代、装備、訓練時間といった要素により様々であることから浮き沈みがあった。様々な計画、例えば、roundout brigade(師団戦列参入旅団)やその派生計画では予備役部隊が同等の現役部隊のパートナーとされていたが、これは予備役の即応度の向上を目指したものだった。湾岸戦争では師団戦列参入旅団が用いられぬままであったが、その後も陸軍の削減により計画は継続された。1996年に陸軍は10個師団態勢となり、戦列参入旅団計画は置き換えられた。新たな計画は陸軍州兵増強旅団であり、eSB(増強独立旅団)やeHSb(増強重独立旅団)と略される。陸軍は15の独立陸軍州兵旅団を選んで特別(増強)状態とした。その大半は師団戦列参入計画に加わっていた部隊である。計画では包括的な計画、訓練、装備を組み合わせて90日から120日で動員と戦闘即応ができるよう旅団の能力を増強させる。選定された旅団は現役兵士(その大半は地域基盤即応群に属する)から特別な支援をうける。

1999年に増強旅団の即応度を高めるため陸軍は二つの組織改革を開始した。第一の改革は固有の隷属旅団を持たぬ師団本部を2個開隊したことである。第24歩兵師団(機械化)(カンザス州フォートライリー)、第7歩兵師団(フォートカーソン)の二つが開隊し、現役/予備役統合師団に指定された。師団本部の人員は現役兵士だが、隷下部隊には陸軍州兵独立旅団が配属される。現役と動員されていない状態の予備役部隊を同一の本部下に統合したのは米国陸軍史上初である。また通常は師団に配属される支援部隊全てが、独立旅団編制では直接各旅団に配属される。この唯一の先例は1967年のベトナムにおけるアメリカル師団の集成である。師団は動員前および動員後訓練、戦争準備と迅速展開を向上させるために編成された。師団本部は配属された増強旅団の計画、準備、訓練の調整を監督する。

第二の改革は現役即応群を陸軍予備役演習師団と併合し新たな組織である訓練支援師団としたことである。即応群は地域基盤陸軍機関であり、予備役訓練に助言と支援を与えるよう設計されていた。1996年に増強旅団が創設されたことで、即応群は陸軍がこれらの旅団を支える前衛となった。陸軍予備役演習師団は1990年代半ばに予備役部隊の訓練演習を準備し実行するために創設された。1999年以後は、新たな訓練支援師団が、増強師団の支援に特に編成された。この師団ではその分担地域にある増強旅団毎に特別な増強独立旅団訓練支援旅団を含まれている。


統合師団を指定されていない増強師団は現役/予備役訓練支援師団下の増強独立旅団訓練旅団により支援を受ける他、特定の現役部隊と“訓練提携”する地位を与えられた。

(#増強旅団一覧表 図13 がここに入ります) 

1994年-1995年、陸軍予備役部隊は戦力縮小で3個機動旅団を削減した。が、米国陸軍予備役の訓練師団は師団毎3個から9個の訓練旅団を保っていた。1994年と1999年の間に訓練師団は新たな2つの型、機関訓練師団と上記の演習師団へと再編された。機関訓練師団は以前の訓練師団が行っていた伝統的な入隊訓練と予備役部隊軍事特技訓練、それに以前は米国陸軍予備役部隊学校部隊が行っていた下士官および士官訓練任務を引き継いだ。演習師団はコンピューターシミュレーションおよび特に用意された訓練場で行う実働訓練を計画、実行する。機関訓練師団も演習師団も隷下に訓練旅団を持つ。訓練旅団は戦術部隊であったかつての師団旅団の旗と伝統を受け継いでいる。上で触れたとおり、1999年に演習師団は現役即応群と併合し新たに現役/予備役訓練支援師団となった。


フォース21と細かな調整

戦力削減と1991年の湾岸戦争の分析とがあいまって陸軍に戦力組成を再検討させた。技術の進歩により将来の陸軍組織をデジタル化することが可能となった。デジタル化とは、戦闘部隊をコンピューターで繋ぐことでより高度な状況認識と迅速な報告と命令の伝達ができ、よって指揮統制と補給が容易となるということである。陸軍は1994年3月に正式にフォース21と名づけて編制研究を開始。1995年にInterim Division Designと呼ばれた師団編制を計画者は策定した。 フォートフードの第4歩兵師団(機械化)が試験部隊となり、1996年-1997年に試行した。

フォース21では旅団に関する編制の変更が三点あった。第一に旅団階梯に装甲ハマー装備の小さい旅団偵察中隊が加えられた。第二に旅団の編制を固定とした。第三に旅団の戦闘大隊固有の戦務支援部隊から師団支援集団の前方支援大隊へ召し上げた。

偵察中隊はフォース21とは別に陸軍全体に施行された。これは後でとりあげる。旅団の編制の固定化により師団は1個機甲旅団と2個機械化旅団を持った。機甲旅団は2個戦車大隊と1個機械化歩兵大隊で編制。機械化旅団は1個戦車大隊と2個機械化歩兵大隊で編制。各大隊はAOEの4個列線中隊編制と異なり列線中隊は3個のみとなった。2003年には第4歩兵師団でさえ1個機甲旅団と2個機械化旅団の固定編制ではなくなり、2個機甲旅団と1個機械化旅団を配備していた。つまり、名称にもかかわらず機甲師団であった。戦務支援部隊の改良はデジタル化した補給の集中体系が持つ、支援を担任する部隊に直接迅速かつ正確に補給支援要請を部隊が送れるという利点に基づくものだった。2003年春には第4機械化師団と第1騎兵師団の一部のみがフォース21編制であっていた。第4歩兵師団(機械化)は2000年会稽年度に完全にデジタル化され、第1騎兵師団が続いた。陸軍の他の師団は限定転換師団21(LCD XXI)に反映された改良AOE編制を保った。LCD XXI編制では列線中隊は各大隊あたり3個へと削減され、旅団に1個偵察中隊が加わる。

フォース21研究と試験が進められている間も、別なところで陸軍の旅団および師団編制に調整と変更が続いていた。師団工兵旅団の創設と旅団への固有の1個偵察中隊追加そして旅団戦闘団構想などである。

湾岸戦争では実質的に全ての旅団に1個戦闘工兵大隊が配属されていた。

(# h ttp://orbat.com/site/history/historical/usa/desertstorm1991.htmlが詳しいのですが配属までは不明。工兵中隊が配属されている場合もあり)
従って、陸軍は戦争のほぼ直後から工兵再編イニシアティブという名称の計画を開始した。その結果重師団には2個工兵大隊と工兵旅団本部が加えられた。航空旅団と異なり、工兵旅団が機動部隊であるという仮装はなかった。旅団本部は師団砲兵本部と同様であり、通常師団の機動旅団の直接支援に配されている部隊の統制をする専門本部である。工兵旅団本部を保つか、単に大隊を直接に師団もしくは旅団に配属するかについて陸軍の考えは二転三転したが、2003年の早い時点では工兵旅団は重師団の基本部隊として依然有るが、旅団戦闘団構想により大抵の師団では工兵大隊は旅団に直接配属されている。2004年では、次章でみるように工兵旅団は師団の4番目の機動旅団本部へと転換されることになっている。

独立旅団には長年1個機甲騎兵中隊の偵察部隊が与えられてきている。師団旅団も通常同様の支援を師団騎兵大隊から受ける。湾岸戦争後は、フォース21として知られる研究で計画者らは師団に配属されている各機甲旅団および機械化歩兵旅団毎に固有の偵察中隊が必要であることに重点を置いた。偵察中隊は旅団長に既に大隊および師団階梯にはあるが旅団階梯には欠如していた直接偵察資産を与える。1998年に限定師団21で陸軍は一般には旅団偵察中隊、公式には騎兵の呼称を与えられている部隊を編制に組み入れた。それから2年のうちに旅団に中隊が加えられた。1963年にROADで旅団が創設されて以来、固有の戦闘部隊を旅団が持ったのはこれが初めてである。

旅団偵察中隊の編制は中隊本部と2個偵察小隊からなる。偵察小隊はM1025 HMMWV6両からなり、3個分隊に分かれる。各分隊はHMMWV2両からなり、一両はMK19 GMGかM240B中機関銃を装備し、もう一両はM2 50口径機関銃を装備する。HMMWVの乗員は偵察員3名。中隊はしばしば他の偵察資産、特に戦闘観測レーザーチーム(COLT)が編合されて専門の砲撃観測員を得る。2003年の時点で配備されている旅団偵察中隊は表14の通り。

表14 2003年における旅団偵察中隊

第1機甲師団第1旅団   第1騎兵F中隊
第1機甲師団第2旅団   第1騎兵G中隊
第1機甲師団第3旅団   第1騎兵H中隊
第1騎兵師団第1旅団   第10騎兵C中隊
第1騎兵師団第2旅団   第9騎兵D中隊
第1騎兵師団第3旅団   第9騎兵F中隊(2004年)
第1歩兵師団第1旅団   第4騎兵D中隊(#訳注 原文ママ)
第1歩兵師団第2旅団   第4騎兵E中隊
第1歩兵師団第3旅団   第4騎兵D中隊(#訳注 原文ママ)
第3歩兵師団第1旅団   第1騎兵C中隊
第3歩兵師団第2旅団   第9騎兵E中隊
第3歩兵師団第3旅団   第10騎兵D中隊
第4歩兵師団第1旅団   第10騎兵G中隊
第4歩兵師団第2旅団   第10騎兵H中隊
第4歩兵師団第3旅団   第9騎兵B中隊

(第1歩兵師団の旅団偵察中隊で確認できたのはhttp://www.globalsecurity.org/military/agency/army/4cav-e.htm
のみ。公式HPは未見)


ブラッドレー/騎兵中隊 2003
陸軍編制、部隊戦力、全く新たな世代の兵器の受容とベトナムやイラクといった様々な紛争への参加にも関わらず、旅団の基本編制は任務要求に基づいて戦闘部隊が配属される柔軟な任務部隊であり続けた。編制が保たれ続けたのは組織の無気力や変化への抵抗ゆえではない。編制が保たれたのはそれがうまく働いていたからである。旅団は現代戦闘の多くの面を遂行するにあたって大変有効な編制方式であることが実証された。師団支援集団の再編により各旅団に多機能支援大隊を与える、固有の旅団偵察中隊を加えるといった細かな変更は繰り返し価値を実証してきた編制概念の微調整であった。そして、戦力削減、基地に関する懸念、師団よりも小さい規模で特定の型の部隊を創設したいという望みが旅団概念に世紀末になって影響を及ぼしたのである。


ストライカー旅団:帰ってきた陸軍革新
近年、陸軍にとって、地球上の遠隔地へ迅速に適切な火力を持った部隊をその土地に根付いた脅威に対処するため投射するという問題が始終悩みとなっている。
機甲部隊や機械化部隊は事前集積装備を用いない場合、大量の船腹と現地に到着するまでに30日もの長期間を必要とする。軽部隊は空挺降下か航空機により比較的迅速に到着できるが、既に現地にいる脅威の重戦力に対して戦闘を成功裡に行うには軽すぎる。展開性と生残性の論議は目新しいものではない。1980年代に作られた自動車化試験師団と軽師団はこの問題への解決を探るものだった。

1999年10月、陸軍参謀長シンセキは暫定旅団戦闘団計画の創設により高度な展開と戦闘能力ある陸軍部隊を作ろうとする最も新たな試みを公表した。およそ20年前の第9歩兵師団自動車化計画と同様に、IBCT計画の目標は新たな技術を用いて適切な火力をもった軽自動車化車両を配備することであった。計画では兵員輸送車両、突撃砲を共に含む装輪装甲車両の派生型を開発することを前提としていた。

師団をIBCTの実験部隊とするかわりに、2000年4月に陸軍はフォートルイスに駐屯する2個師団旅団を選定した。両旅団は親師団がそれぞれ韓国とハワイに離れている部隊である。一方は機械化旅団でもう一つは軽旅団であった。2001年6月には計画にさらに4個旅団が追加された。これらは1個独立軽旅団、1個師団軽旅団、1個軽装甲騎兵連隊、陸軍州兵1個機械化師団旅団である。旅団の編制は、展開後に師団下あるいは独立して用いられ、96時間内に世界中へ空軍輸送により展開可能なよう設計されている。旅団は初期入域部隊(軽歩兵と空挺)と後から展開する重戦力との展開上の間隙を埋めるものである。

新旅団の中核は新型の軽装甲装輪車両である。IBCT計画が公表された時点ではこの車両は存在していなかった。最初の旅団はカナダ軍から借用した地上突撃車両(LAV-Ⅲ)とHMMWVを使用した。ジェネラルダイナミックスとジェネラルモーターズは2000年11月に契約を与えられ新型車両を開発した。当初は暫定装甲車両と呼ばれていたが、2002年2月に陸軍名誉賞を授かった2名(互いに無関係)から名をとりストライカーと陸軍は公式に命名。開発により、ストライカーは19トンの8輪装甲車両で派生型は8つ、時速は最大60マイルとなった。1機のC-17でストライカー3両を輸送可能。最初に作られた車両は歩兵輸送車であり、9名歩兵分隊を輸送し、Mk19 GMGか50口径機関銃で武装。派生型には機動砲が含まれ、2002年6月に最初の一台が試作車両として完成。MGSは安定化された105mm砲を装備。2005年に完全に配備されるまでの間、旅団内のMGS部隊はストライカー対戦車ミサイル型で代替される。その他の車両には偵察、迫撃砲、指揮、火力支援、工兵、野戦救急、核生物化学偵察車両がある。 ストライカーに加え、旅団はデジタル技術を活用し無線通信とセンサーにより部隊の戦場における状況認識を維持する能力を向上させる。


最初のストライカー旅団は2001年12月に、2番目がその1年後、残りは以降数年で作戦可能となる予定だった。しかしストライカーの開発で問題があり生産の遅れにより計画も遅れた。最初のIBCTである第2歩兵師団第3旅団がカリフォルニア州フォートアーウィンとルイジアナ州フォートポークの陸軍訓練センターで2ヶ月の野外訓練を開始したのは2003年3月後半だった。試験を成功裡に完了し、旅団は作戦可能とされた。2003年後半に紛争作戦での運用のためイラクに展開を開始。ストライカー部隊は表15に示す。

表15
第2歩兵師団第3旅団 ワシントン州フォートルイス
第25歩兵師団第1旅団 ワシントン州フォートルイス
第172歩兵旅団 アラスカ州フォートリチャードソン
第2装甲騎兵連隊(軽) ルイジアナ州フォートポーク
第25歩兵師団第2旅団 ハワイ州スコーフィールドバラック
第28歩兵師団(機械化)第56旅団 ペンシルヴァニア州陸軍州兵


ストライカー旅団編制はストライカー309両と700両を超える装輪車両を含む。旅団は3個諸兵科連合歩兵大隊と1個の新型騎兵大隊である、偵察捜索目標捕捉大隊(RSTA大隊)からなる。また、対戦車中隊および工兵中隊、砲兵大隊、軍事情報中隊や通信中隊に旅団支援大隊を含む。編制は中隊階梯において諸兵科連合部隊として容易に戦闘できるよう組まれている。諸兵科連合歩兵大隊は3個中隊からなる。歩兵中隊は3個歩兵小隊(ストライカー歩兵車両3両、81mm迫撃砲班(ストライカー迫撃砲型車3両)1個(、機動砲小隊(ストライカーMGS4両)、そして狙撃チーム1個からなる。

(#訳注 ここの編制についての記述は以下の資料と相違があります。
歩兵小隊は4両編制 迫撃砲班は2両 MGS小隊は3両とされています。
http://www.globalsecurity.org/military/library/policy/army/fm/3-21-11/c01.htm)

大隊階梯では偵察小隊、迫撃砲小隊、1個狙撃分隊がある。

RSTA大隊は3個偵察中隊と1個捜索中隊からなる。偵察中隊は3個偵察小隊と1個迫撃砲班からなる。捜索中隊は1個UAV小隊、NBC偵察小隊、1個マルチセンサー小隊からなる。


旅団の他はM198牽引式155mm榴弾砲を装備した砲兵大隊、TOW搭載ストライカーを装備した1個対戦車中隊(最終的には新型の「掩体壕破壊」TOWに更新される予定)、障害啓開装備を持った1個工兵中隊、人間情報資産の使用を考慮して特に設計されている1個軍事情報中隊、指揮統制支援をおこなう固有の1個通信中隊、1個衛生中隊、1個支援中隊、1個本部/補給中隊からなる1個支援大隊からなる。支援大隊は戦闘作戦の開始から72時間、旅団に自律して戦務支援を供するよう設計されている。

図37 ストライカー 左は歩兵輸送車 右は機動砲

図38 ストライカー旅団編制図
装輪装甲歩兵旅団
本部及び本部中隊
軍事情報中隊
通信中隊
装輪装甲歩兵大隊×3
・本部及び本部中隊
・・装輪装甲歩兵小隊
・・機動砲小隊(120mm×4)
・装輪装甲歩兵中隊×3
・・装輪装甲歩兵小隊
・・機動砲小隊
・・装輪装甲迫撃砲班(120mm×2)
装輪装甲偵察大隊
・ 装輪装甲偵察中隊×3
・・装輪装甲偵察小隊×3
・・装輪装甲迫撃砲班(120mm×2)
・装甲センサー部隊
装輪装甲対戦車中隊
・装輪装甲対戦車小隊×3
装輪装甲砲兵大隊
装輪装甲工兵中隊
・装輪装甲工兵小隊×3
・装輪装甲工兵小隊×1
旅団支援大隊




図39 2004年における旅団戦闘団
第4歩兵師団第3旅団
本部及び本部中隊
第44対空連隊第1大隊C中隊(ラインバッカー)
第9騎兵B中隊
第68機甲連隊第1大隊
第8歩兵連隊第1大隊
第12歩兵連隊第1大隊
第534通信中隊
第104 C軍事情報中隊
第29砲兵連隊第3大隊(155mm自走砲装備)
第4工兵大隊
第64前方支援大隊
・第64 A輸送中隊
・第64 B整備中隊
・第64 C衛生中隊


旅団戦闘団

1990年代後半の縮小と駐屯地に関する問題があいまって師団に対する旅団の役割に影響を及ぼした。2003年には1963年に旅団が復活して以来最も多くの数の陸軍旅団が親師団とは別に駐屯していた。皮肉なことにはその時点で陸軍の独立旅団の数はわずか2だった。それどころか1990年代の後半のある時点では独立旅団の数は0だった。2つの独立旅団のうち一つはアラスカ州の第172歩兵旅団で戦域防衛旅団である。もう一つは特殊目的旅団である第173空挺旅団でイタリアにいる。実情としては21世紀の陸軍は自己完結した独立旅団の役割を、旅団戦闘団構想を用いることで自己完結した師団旅団で行っている。


旅団戦闘団は1957年以前の連隊戦闘団構想に基づくものである。旅団に典型的に配属される2から5の機動大隊に加えて、師団支援部隊の切片を旅団への支援に指定して配属するものである。用語としては多少誤りの感があるのは旅団はかつての連隊と異なり編制上は任務部隊本部であるからである。ともあれ、旅団戦闘団という用語により陸軍は師団旅団を基本的に自己完結した部隊として容易に指定できるようになった。


2003年にはほぼ全ての師団旅団が親師団とともに位置しているのも含めて旅団戦闘団として組織されていた。駐屯に関する問題で旅団戦闘団を実行する必要が大きくなった。とりわけ、陸軍のいくつかの大型駐屯地では、親師団の師団本部を伴わない別々の師団の旅団が二つ同居しているところがあった。

ストライカー旅団が旅団戦闘団として師団本部を持たぬ形で呼称されていること、そしてストライカー旅団戦闘団は3つの別々の師団、1個独立旅団、1個装甲騎兵連隊が選定されたことはSBCTが部隊名に関わらず師団部隊でなく独立した部隊として編成されていることを示す。2004年時点での現役旅団とその駐屯地は表16の通り。(太字は親師団と別居か編制上独立していることを示す。)典型的な旅団戦闘団編成は図39の通り。

表16 2004年時点の旅団駐屯地

部隊名 駐屯地 親師団との同居・別居 型
第1機甲師団第1旅団 ドイツ 同居 機甲
第1機甲師団第2旅団 ドイツ 同居 機械化
第1機甲師団第3旅団 カンザス州フォートライリー 別居 機甲
第1騎兵師団第1旅団 テキサス州フォートフッド 同居 機甲
第1騎兵師団第2旅団 テキサス州フォートフッド 同居 機甲
第1騎兵師団第3旅団 テキサス州フォートフッド 同居 機械化
第1歩兵師団第1旅団 カンザス州フォートライリー 別居 機甲
第1歩兵師団第2旅団 ドイツ 同居 機械化
第1歩兵師団第3旅団 ドイツ 同居 機甲
第2歩兵師団第1旅団 韓国 同居 機甲
第2歩兵師団第2旅団 韓国 同居 機械化/空中強襲
第2歩兵師団第3旅団 ワシントン州フォートルイス SBCT
第3歩兵師団第1旅団 ジョージア州フォートスチュアート 同居 機械化
第3歩兵師団第2旅団 ジョージア州フォートスチュアート 同居 機甲
第3歩兵師団第3旅団 ジョージア州フォートベニング 別居 機械化
第4歩兵師団第1旅団 テキサス州フォートフッド  同居 フォース21/機甲 
第4歩兵師団第2旅団 テキサス州フォートフッド  同居 フォース21/機甲
第4歩兵師団第3旅団 コロラド州フォートカーソン 別居 フォース21/機械化
第10山岳師団第1旅団 ニューヨーク州フォートドラム 同居 軽 
第10山岳師団第2旅団 ニューヨーク州フォートドラム 同居 軽
第25歩兵師団第1旅団 ワシントン州フォートルイス 別居 SBCT
第25歩兵師団第2旅団 ハワイ州 同居 軽/SBCT
第25歩兵師団第3旅団 ハワイ州 同居 軽
第82空挺師団第1旅団 ノースカロライナ州フォートブラッグ 同居 空挺
第82空挺師団第2旅団 ノースカロライナ州フォートブラッグ 同居 空挺 
第82空挺師団第3旅団 ノースカロライナ州フォートブラッグ 同居 空挺
第101空中強襲師団第1旅団  ケンタッキー州フォートキャンベル 同居 空中強襲
第101空中強襲師団第2旅団 ケンタッキー州フォートキャンベル 同居 空中強襲 
第101空中強襲師団第3旅団 ケンタッキー州フォートキャンベル 同居 空中強襲 
第172歩兵旅団   アラスカ州 同居 軽/SBCT
第173空挺旅団   イタリア 同居 空挺




2003年のイラク戦争における旅団

2003年3月から4月のイラクとの戦争では、1991年の湾岸戦争と比べて陸軍が展開した地上戦闘機動旅団の数は遥かに少なかった。1991年には21個だったが2003年は8個である。にもかかわらず結果は遥かに短期間に遥かに決定的であった。22日間でイラク軍の戦闘可能な部隊を撃滅し、首都バグダッドを占領した。1991年のときは6週間の航空作戦に続く4日間の地上戦闘でイラク軍のわずか一部を相手にし、残る大半は無傷だった。イラクの自由作戦の地上作戦段階で展開した旅団は表17の通り。

表17 2003年 イラクとの戦争での旅団

第3歩兵師団航空旅団(機械化)
第3歩兵師団第1旅団(機械化)
第3歩兵師団第2旅団(機械化)
第3歩兵師団第3旅団(機械化)
第101空挺師団第1旅団(空中強襲)
第101空挺師団第2旅団(空中強襲)
第101空挺師団第3旅団(空中強襲)
第101空挺師団第101航空旅団(空中強襲)
第101空挺師団第159航空旅団(空中強襲)
第82空挺師団第2旅団
第1機甲師団第3旅団(イラクの自由作戦中には展開せず)
第173空挺旅団

この作戦では現代の戦場における機動旅団の汎用性と柔軟性がまたも証された。第3歩兵師団(機械化)の3個重旅団はバグダッドへの前進の先鋒となり、40時間以下で約200マイルを運動。そして、たまたま重なった悪天候下で予め計画された補給のため停止したのち、大河を2日間で渡河したのちイラク首都への運動を完了しその後数日間で首都の大部分を確保した。

第101空挺師団(空中強襲)の空中強襲旅団と第82空挺師団の空挺旅団はともに第1機甲師団第3旅団という重旅団に支援を受けて第3機械化師団に続いて前進し、同師団の旅団が迂回した都市を引き継いで長い補給及び通信線を守りつつ、サマワ、ナジャフ、カルバラ、ヒッラで敵の抵抗を撃滅した。第173空挺旅団は北部イラクの要地に空挺降下しクルド部隊を助けて正面の士気阻喪したイラク軍の撃破を完遂した。特殊作戦任務部隊の一部として第173のような旅団が用いられたのは米国陸軍史上で初のことである。

航空旅団は、師団航空旅団も、軍団階梯の第11航空群と第12航空旅団もイラク戦争ではおおいに用いられた。とはいえ、機動部隊としての航空旅団の使用はせいぜい限られたものだった。

第11航空群は攻撃ヘリ部隊であり、第12航空旅団は機動部隊に空輸資産を供するのが中心であった。さりながら、第3歩兵師団の航空旅団は作戦の後半、カルバラ付近の段階で偵察および警戒作戦を統制している。これらは伝統的には機動型の任務である。

将来には、イラクの自由作戦に参加したこれらの旅団、海兵隊、航空および海軍部隊の活動を完全に文書とする作が疑いの余地無く出てくるであろう。本作は米国陸軍における旅団の開発と作戦の歴史の最後の事例研究として第3歩兵師団(機械化)の3個機動旅団の作戦を予備分析して供するものである。


2003年イラクでの作戦における第3機械化師団の旅団

第5軍団第3歩兵師団(機械化)はイラクにおけるサダムフセイン体制を放逐する連合地上攻撃の主攻を遂行した。師団の作戦構想は体制の心臓への短剣の突きのように、可能な限り早期に迅速にバグダッドに前進することであった。

大胆な前進では後続部隊のため橋梁を確保するほかは慎重に都市を迂回し、首都南西50マイルのカルバラ周辺の地域を防御する共和国防衛隊を撃破するまではユーフラテス川西岸に留まって進んだ。

バグダッドに米軍部隊が近づいただけで体制は崩壊するという願望があった。中央軍は1991年に用いたのとは対照的な戦略を意図的に立てたイラク軍は二人の元ロシア軍将官の助言を受けて1991年のと同様のを予想していた。1991年の作戦は長期間の航空作戦、続いて大規模な地上作戦へと続き、部隊の多くは友軍と並んで進み何であれ迂回しなかった。
新たな作戦では精密弾薬、デジタル通信、情報収集の優位を元手としていた。これらの優位を利用して、イラクの防衛が対応して実をあげるよりも迅速かつ予想外に運動することが目的だった。この戦略の切り替えはランニングスタートと遠回しに呼ばれた。

イラクの自由作戦では、当初第3機械化師団の旅団戦闘団は1個戦車重旅団部隊、1個機械化重旅団部隊、そして2個機械化大隊と2個戦車大隊からなる均衡旅団部隊からなっていた。この任務編成は表18に示す。

表18 2003年における第3歩兵師団(機械化)の当初編成

第3歩兵師団(機械化)

第1旅団戦闘団
・第7歩兵連隊第3大隊任務部隊(機械化)
・第7歩兵連隊第2大隊任務部隊(機械化)
・第69機甲連隊第3大隊
・第1騎兵C中隊
・第41砲兵連隊第1大隊
・対空中隊
・第11工兵大隊
・第3前方支援大隊

第2旅団戦闘団
第15歩兵連隊第3大隊任務部隊
第64機甲連隊第4大隊任務部隊
第64機甲連隊第1大隊任務部隊
第9騎兵E中隊
第9砲兵連隊第1大隊


#・第3歩兵(機械化)師団の初動時の旅団編制表

第1旅団戦闘団
2-7任務部隊(2-7歩兵(機械化)大隊)
3-7任務部隊(3-7歩兵(機械化)大隊)
3-69任務部隊(3-69機甲大隊)
第1騎兵連隊C中隊
1-41砲兵大隊
1-3対空大隊A中隊
第11工兵大隊
第123前方支援大隊

第2旅団戦闘団
3-15任務部隊(3-15歩兵(機械化)大隊)
1-64任務部隊(1-64機甲大隊)
4-64任務部隊(4-64機甲大隊)
第9騎兵連隊E中隊
1-9砲兵大隊
1-3対空大隊○中隊
第10工兵大隊
第26前方支援大隊

第3旅団戦闘団
1-15任務部隊(1-15歩兵(機械化)大隊)
1-30任務部隊(1-30歩兵(機械化)大隊)
2-69任務部隊(2-80機甲大隊)
2-70機甲大隊(第1機甲師団第3旅団より)
第10騎兵連隊D中隊
1-3対空大隊○中隊
1-10砲兵大隊
第317工兵大隊
第203前方支援大隊

航空旅団
3-7騎兵大隊
1-3航空大隊
2-3航空大隊


師団はパトリオット対ミサイル大隊(第525対空連隊第5大隊)と補給軍団支援群を含む追加配属資産を受けた。フォース21旅団以下戦闘指揮装置が中隊階梯上の全指揮官に支給されたことで師団の指揮統制能力は大きく向上した。この最近配備されたデジタル装備により指揮官は友軍と、それより程度は低いものの敵軍を含めてのほぼ直近の状況認識を部隊位置表示により得られるようになった。

第3機械化師団の3個旅団は2003年3月20日の日没から21日の払暁の間にイラクとクウェートを隔てる堤を横断した。
師団は連合地上部隊の前線左側に位置していた。西は開けた砂漠であったが、側翼は情報源によるとイラク軍はいないとのことだった。東では第1海兵遠征軍の第1海兵師団の部隊がサフワン付近でクウェートからナシリヤへの主要道路(高速道路8号)に沿って
国境を横断した。

第1海兵遠征軍の当初の任務はルメイラ油田の確保、ついで高速道路8号をナシリヤへ前進し、ユーフラテス川を渡河し、川西岸をバグダッドへと進むことであった。第1海兵遠征軍の右(東)には、英国第1機甲師団がいた。英国第3コマンドー旅団とともに同師団はバスラ周辺地域の確保が任務だった。第3歩兵師団はクウェートからユーフラテス川渓谷をナシリヤとサマワ付近まで2列縦隊で野外踏破して前進する。イラクへ入った時点で各旅団にはそれぞれ特定の任務が与えられていた。第1旅団は右、第2旅団は左でまず国境警備を啓開して突破帯を確立、師団騎兵大隊の第7騎兵連隊第3大隊、第1旅団の大半と第3旅団が通過してユーフラテス川に向かっての2列での前進を可能ならしめる。続いて各旅団は前衛に続く。

図40 2003年 カルバラへの長駆 (訳注 略しました)

騎兵大隊は左側を開けた砂漠を通って迅速にサマワ近郊まで前進した。サマワでの任務は市南西の運河に掛かる橋梁2本を確保して市を東と南から遮断することと、師団がサマワを超えて前進する主軸に予定していた国道28号を確保することであった。戦車重編成の第2旅団は騎兵大隊のすぐ後ろに続き、北西のナジャフ近郊へと第7騎兵連隊第3大隊を超越して国道28号を北へと前進し、ナジャフ市南西に師団階梯および軍団補給基地の予定地を確保する任務を負っていた。

右の前進軸は第1旅団と第3旅団で成っていた。両旅団の任務はナシリヤ付近で国道1号と国道8号沿いのタリル航空基地の施設群が含む前進線を確保し、ナシリヤの西ユーフラテス川にかかる高速1号の橋梁を確保することであった。同橋は海兵隊がのちにティグリス川に前進するのに用いるので重要であった。確保後、旅団はナシリヤ地域の後方警備を担任する第2海兵遠征旅団の部隊に引き渡してサマワとナジャフへとユーフラテス川渓谷にそって前進を継続。初動の前進は開けた砂漠を通っての路外機動であり、後方部隊は道路や小道上で後続する。師団は行軍速度時速24マイル、初日に平均150マイル前進。旅団の進撃はそれぞれ異なった方法であった。左では第7騎兵連隊第3大隊に後続する第2旅団は2隊に分かれていた。装軌車両の全部は迅速に砂漠の難地形を路外機動し、装輪隊はそれよりは遅い速度で舗装道路を進んだ。右では第1旅団が路外を、最初は1個大隊任務部隊を先頭に他2個が側翼に位置する楔隊形で、その後3個全部が並列となって進んだ。

国境をのぞいてはイラク軍はナシリヤ地域への前進に対して抵抗しなかった。右(東)を担任する第1旅団は、海兵隊が確保中のルメイラ油田の西でタリル航空基地の東にあるJalibah飛行場を確保。その後、第3旅団が第1旅団を超越してタリル地域を攻撃し防御していたイラク軍第11歩兵師団を撃破した。

第3旅団戦闘団は攻撃陣地Barrowと名づけられたタリルの南東の砂漠のある地点で隊形を整えて、3個前方任務部隊(1個戦車大隊は予備として保持)を用いる機動の連続でタリルを攻撃し飛行場を孤立させてから確保した。午後遅くにはTF2-69機甲が旅団偵察中隊に後続して前進し、国道1号に沿って飛行場西側を迂回、ユーフラテス川にかかる高速橋に到達。
この地点は目標Clayと名づけられていた。午後と夕方かかって任務部隊は橋南端でイラク軍徒歩部隊と戦闘し2350までに撃破、ついで川を渡り北岸を3月22日0500に確保した。
橋梁での戦闘が激しく続く中、旅団の残り2個任務部隊も戦闘に加入した。TF1-15歩兵の任務はタリル飛行場の北東地域にある目標Libertyと名づけられた兵舎の確保であった。3月21日夕方に動いて、任務部隊は目標を、わずかの抵抗も消え去り(イラク対空部隊将官1名を含めて降伏したものもいた)3月22日の早朝に確保し、飛行場の包囲網は閉じた。TF1-30歩兵は飛行場の掃討を担任し、南東から飛行場を囲む堤を突破して直接前進、砲兵、攻撃ヘリ、航空火力の支援を受けて飛行場を横切って突撃し、軽微な抵抗を受けつつもタリルを奪取した。

図41 2003年21日から22日 タリル航空基地 (訳注 略)

作戦中に繰り返された機動なのだが、第3旅団が地歩を固めてナシリヤを包囲する警戒部隊となり、第1旅団は第3旅団を超越して国道8号を西はサマワへと前進した。第3旅団は3月23日に国道8号を東から第2海兵遠征旅団が来て交代するまでナシリヤに留まった。引継ぎを受けて旅団は北西へとサマワへの道路を各路するため出発した。

3月22日の黎明後、サマワに第7騎兵連隊第3大隊の地上部隊が到達。後続の第2旅団の装軌隊も騎兵部隊に追い付き、休息後、サマワ地域を迂回してナジャフへ向かう。騎兵大隊は市南辺にある目標Chathamと名づけられた運河橋2本を確保するため前進し、途上で特殊部隊と連接した。その後騎兵大隊はイラク準軍隊部隊と激しい火力戦闘に入ったがすぐに優位となった。同日、第1旅団はユーフラテス川沿いに国道8号をナシリヤ地域からサマワに向けて前進し、敵と短時間交戦した後に戦闘を騎兵大隊へと引き継ぎ、サマワ近辺で国道28号を西に第2旅団に続いてナジャフ近郊へと向かった。騎兵大隊はサマワ近辺に留まり同市を包囲し続け、23日には第3旅団へ配属された。

海兵隊にナシリヤを引き継いだ後、第3旅団は前進してサマワの包囲を閉じた。サマワ包囲中、イラク準軍隊部隊が度々、都市地形の防御優位を捨てて第3旅団の機甲部隊に突撃して攻撃したが、予想通りの結果となった。旅団は3月29日に第82空挺師団第2旅団に引き継がれるまで同市周辺に留まった。引継ぎ後、ナジャフ北西の集合地域へと移動してカルバラ近辺での作戦に向けて準備した。

シーア派の聖なる都市ナジャフが第3機械化師団の各旅団の地平線に次に現れた。この大都市も包囲する必要があった。シーア派の都市なので狂ったような抵抗はないと期待されていた。が、この予想は外れた。ナジャフの南西、国道28号に沿った砂漠の一帯が目標Ramsとして、バグダッドへの最終的な進撃のための師団主補給基地に指定されていた。目標Ramsを確保しナジャフを孤立させる戦闘に参加したのは第1旅団、第2旅団と第7騎兵連隊第3大隊である。第2旅団は先頭にたち、目標Ramsを確保すべく40時間以下で230マイルの前進を完遂した。続いて第1旅団が目標Ramsを超越してナジャフを北(バグダッドの方角)から遮断し、第7騎兵連隊第3大隊はユーフラテス川沿いに国道8号を進みナジャフを東から遮断した。

サマワと同様に、イラク側は市内部に留まらずに外部へ出て作戦する準軍隊部隊が主に抵抗した。目標Ramsは放棄されていると予想されていたが、そうではなかった。イラクの不正規部隊と正規部隊が同地を占領し無線塔通信施設を守っていた。防御側は米側の迅速な前進に気付いておらず、空挺投入を予想していた。第2旅団の先導部隊、戦車重編成大隊任務部隊が当初の予定よりも1日早く3月22日ぎりぎりに到着し、狂的だが自殺的なイラク準軍隊を戦闘で撃破し、近接航空支援と砲撃に支援されて23日の1000までに目標を確保した。続いて行動の第2段階ではイラク側はナジャフから繰り返し目標Ramsの旅団部隊を攻撃hしてきた。以後2日間旅団は防御態勢で目標Ramsに留まった。

第1旅団はナシリヤで交代を受けた後、サマワを迂回して第2旅団に続いて目標Ramsに向かい、ついで目標Ramsを超越してさらに北西に向かって国道28号を暫定目標Raidersへと23日の午前遅くに進んだ。目標Raidersに前進したことでナジャフを北西から遮断し、Raidersからすぐさま東へと前進して目標Jenkinsに指定されたユーフラテス川にKifalで掛かる橋梁を確保。この動きでナジャフを北東から遮断した。


目標Ramsから目標Raidersに向かう国道28号はナジャフが位置する崖線を横切る。道路はそこで切通しとなっており、両側に機動の余地のない制約地形となっている天然の緊扼地点である。イラク軍は国道28号と崖両側に沿って歩兵が壕を掘り、砲兵も配置が巧みだった。
第1旅団が目標Ramsからの前進を開始すると直射および間接射撃が先頭部隊を見舞った。旅団は対応として支援火力部隊に進路を啓開すべく要請した。煙幕射撃で敵の視界から縦列を隠したのち、直接支援砲兵大隊である第10砲兵連隊第1大隊は58の射撃任務で放ち、イラク側の抵抗を制圧した。第1旅団は24日の早い時刻に目標Raidersを確保しJenkinsへの運動に備えた。その日遅く、旅団はナジャフから北に走る国道9号にRaidersとJenkinsの間で阻止陣地を確立。25日払暁にJenkinsへの前進は砂嵐のただなかで始まった。対空砲兵中隊と戦車中隊を中心とする任務部隊がJenkinsにかかる橋梁に西から通じる道路を旅団本隊の前進に先立つ数時間前に確保した。イラク側は橋の此岸をいまやおなじみの狂気の勢いで準備陣地で守っていた。対空中隊団は第7歩兵連隊第3大隊B中隊を含むTF3-69機甲が到着し川西岸のKifalのその一帯を掃討するまで防御側と9時間にわたり砲撃で交戦した。掃討に直ちに続いて1個戦車小隊が東岸へ橋を強行して渡ろうとし、一方イラク側は橋を爆破しようとした。爆破は構造を倒すには至らなかったものの、破壊により戦車は一度に1両ずつ案内されて渡るのがやっとだった。任務部隊はこの方法で対岸に戦車全部を渡した。いまや川を渡った任務部隊はイラク側の徒歩部隊が繰り返す自殺的攻撃を撃退し、強力な防御陣地を確立した。橋頭堡が達成されたことにより第1旅団はナジャフの北からの遮断を完遂した。

一方師団の前方部隊がナジャフにいた23日にナシリヤ付近では、師団支援集団の装輪隊は目標Ramsに向けての遅々とした前進を続けていた。通信線が長く延びるにつれ、市街地域を当初は迂回していたものの、後方地域車列への危険はそれに従って増した。師団支援集団の車列の一つがナシリヤの確保していなかった地域に迷い込み伏撃を受けて損害と捕虜を出した。この車列は主として師団に配属されたパトリオット大隊の整備中隊であった。ナジャフに話を戻すと、師団騎兵大隊は第1旅団と第2旅団に加わって戦闘に入った。市の包囲を閉じるため、第7騎兵連隊第3大隊はサマワでの包囲任務を交代した後、3月24日に国道9号をユーフラテス川に沿って45マイル、目標Floydに向かって進んだ。目標Floydの中心はナジャフの南東にあるAbu Sukhayr町に近いユーフラテス川に掛かる2つに分かれた橋である。騎兵の進路は第1旅団と第2旅団の目標Ramsに向かっての運動の東で並行している。国道6号に沿っての前進は地形の制約により道路一本のみであり、前進はたちどころに走行しつつの戦闘となった。騎兵はイラクの準軍隊および民兵が確立した一連の大規模な伏撃を突破せねばならなかった。準軍隊および民兵はRPGと対戦車ミサイルを装備していた。加わゆるに、3日間の砂嵐が始まって視界を制限し、戦闘によっては至近距離で生起した。Faysaliahでの戦闘は最も激しく、とりわけ運河橋が崩れて道を塞ぎ、M1戦車1両に損傷を与えて迂回を余儀なくされた。一方、暫くの間、対岸では戦車とブラッドレーのハンターキラーチームが立ち往生した。大隊が進路全体でなおも戦闘を続けている中、3月25日の払暁には、前衛隊が9時間で45マイルの路上機動の後に目標Floydに到達した。この道はその後、兵らに「待ち伏せ通り」と呼ばれた。

やっと目標Floyd付近に到達するなり、第7騎兵連隊第3大隊は直ちに橋を確保すべく攻撃した。この攻撃は熱線および夜間視察装置を用いて砂嵐の只中で行われた。イラクの準軍隊の成員らは橋を激しく守った。にもかかわらず午前遅くには橋は確保され大隊の一部は別な橋とダムを確保すべくAbu Sukharを通って川東岸を北へと運動した。再び抵抗は隅々に至るまで激しく、砂嵐のため視界が悪かったので戦闘は近距離で行われた。イラク側の圧力が増し、第7騎兵連隊第3大隊はすぐにユーフラテス川両岸で3つの正面で同時に戦うことになった。弾薬があっというまに切れてきた。師団は即座に第1旅団と第2旅団に警報を出して騎兵大隊を救援か連接するため部隊を集合させた。25日の薄暮に第1旅団はKifal橋頭堡の2-69機甲任務部隊から部隊を派出してユーフラテス川岸を東へ緊急補給を携えて騎兵へ派出した。二つの部隊は第3旅団が運動を開始してから3時間以内に連接した。その間、南西では第2旅団が目標Ramsを確保し騎兵大隊とその場で引き継ぐことを課せられ、26日に実行したことでナジャフを南から遮断した。この任務では旅団は追加でこれまで師団後方部隊を護衛していた2個戦車大隊任務部隊を目標Ramsの占領の際に受領している。
ナジャフをめぐる作戦はイラク南部とクウェートを3日間(3月25日から27日)覆い、視界をゼロにした大型の砂嵐で妨げられた。けれども砂嵐も第3歩兵師団(機械化)がナジャフを孤立させ次の作戦として予定されていたカルバラとバグダッドへの途上でのイラク共和国防衛隊に対する作戦の準備で目標Ramsに大規模な補給基地を確立するのを阻むことはなかった。

司令部はカルバラ付近に予想される共和国防衛隊に対して前進する前に作戦休止を組んではいたが、2003年3月26日には第3機械化師団の全3個旅団はこの主要任務から外れて、進撃路沿いの警備任務を遂行していた。3月25日から29日にかけて実質的に北への全ての進撃は停止した。南では第3旅団がサマワを包囲していた。その北西50マイルでは第2旅団が南から第1旅団が北からナジャフを包囲していた。

旅団がカルバラ=バグダッド作戦の準備を開始できるようにするため、第5軍団は第101空挺師団(空中強襲)と第82師団第2旅団を派出して警備任務を引き継がせた。第82空挺師団の部隊は29日に第3旅団とサマワ周囲で交代、同日、第101は他2個旅団とナジャフ周囲で交代した。第101師団も第82師団も以後数日間第3機械化師団の通信線に位置する敵の抵抗中心を減殺するのに費やした。

引継ぎ次第、第3師団の旅団は目標Ramsへと移動し次の作戦に備えて装備を整え再編した。この再装備と再編は部隊がサマワとナジャフ周囲に配置されているときから行われていた。師団は3個の機動旅団本部下の任務編成を再編した。第3旅団はまずナシリヤ、ついでサマワで抵抗巣を包囲していたので、2-69機甲任務部隊は3月22日、目標Raidersに第1旅団が前進する際に同旅団へ転属されていた。第1機甲師団第1旅団から第3師団第3旅団に配属されていた戦車大隊である第70機甲連隊第2大隊は第2旅団の第64機甲連隊第1大隊とともに3月24日に目標Ramsで師団支援集団の警備のため派出された。両大隊はその後26日に目標Floydでの救援作戦のため第2旅団に配属された。師団がカルバラ作戦の準備を3月29日始めたとき、第70機甲連隊第2大隊はそれ以降ずっと第101空挺師団(空中強襲)へと配属される
ことになり、1-15歩兵任務部隊は第3旅団から第2旅団へとカルバラ=バグダッド作戦中転属された。これにより師団の編成は第1旅団が2個機械化歩兵任務部隊と1個戦車任務部隊、第3旅団が1個機械化と1個戦車任務部隊、そして第2旅団が2個機械化と2個戦車任務部隊となった。

第2旅団は次いで機械化任務部隊の一つである3-15歩兵任務部隊を師団のユーフラテス川渡河点の警備に数日間差し出した。任務編成は作戦開始時点と同様にバグダッド到達時には戻り、第3旅団は当初の常時配属されている大隊を受け戻した。

作戦の最後となる段階はカルバラを迂回しての前進、ユーフラテス川の渡河、バグダッドに直接前進し包囲することから成り立っていた。バグダッドを孤立させた上で、次に各旅団は市内に侵入した。侵入の度合いはイラク側体制の抵抗と状態によった。第3歩兵師団はティグリス川に北から南へ二分されているバグダッドの西部の包囲を担った。第1海兵遠征軍は南東から前進し、ティグリス川以東を担任したあ。この作戦では全3個師団機動旅団がそれぞれ要となる役割で用いられ、それぞれの最終目的はバグダッドの包囲であり、北が第3旅団、西が第1旅団、南が第2旅団となっていた。

バグダッドはユーフラテス川の東にある。米陸軍部隊は川西の目標Ramsにいるので、イラクの首都に前進する前に渡河せねばならない。ユーフラテス川西の地形は、堤、運河、灌漑水路、岩列、そしてカルバラの街区で区切られているため大機甲部隊の運動を制約していた。前進と師団の通信線として唯一の通過可能な地形はカルバラとイラク人が塩の湖と呼び、米側は一般にはカルバラ湖と呼んでいた大湖の間の2マイルの地隙である。情報分析によると、敵はカルバラ市の西であるカルバラ地隙を砲兵とミサイルによる殺傷地帯としていた。にもかかわらず地形により米軍はこの地隙を通過せざるをえなかった。従って、攻勢作戦を再開する前に、第5軍団は地隙を射程におさめる敵兵器の全てを発見、破壊することに全力を注いだ。

カルバラ地隙に最も近く最良の渡河点は、カルバラの北西にあるMusayyibで国道9号の2本各4車線の幹線道路橋である。この地点を渡河するのは防御しているイラク側にとって明白であった。イラク側に対して米軍の真の意図を欺瞞するため、第5軍団は実際の前進の前に様々な手段で偽計を仕掛けた。この戦略の一環として、第5軍団は第3機械化師団に師団の計画しているユーフラテス川渡河点を欺瞞するため陽動攻撃を行うよう指示した。

カルバラの東Hindiyahで道路がユーフラテス川を橋で渡り、古代バビロンの遺跡の隣にできたヒッラ-へ続いている。この端が目標Murrayに指定された。真の渡河点であるカルバラの北西Musayyibの国道9号の二本の幹線道路橋は目標Peachに指定された。第101空挺師団の部隊がナジャフからヒッラ-に向けて北西から陽動する間、カルバラ地隙への前進の序段として、第3歩兵師団第2旅団は目標Ramsから目標Murrayに向けて同様に陽動した。それに加えて第2旅団は師団の前進する正面の地域にある小さな孤立した敵部隊を掃討した。

3月30日、第2旅団は2個機械化歩兵任務部隊をもって岩列から敵部隊を掃討することでナジャフとカルバラ間の師団正面を啓開すべく出撃した。砲撃と攻撃ヘリが任務部隊を支援した。翌日には第5軍団全体が動いて敵の注意をカルバラ地隙から逸らしイラク軍砲兵とミサイル部隊の撃滅をすべく様々な陽動攻撃と航空攻撃を行った。

第3歩兵師団の主行動は第2旅団による目標Murray、Hindiyahに掛かる橋への陽動であった。
第2旅団の任務はイラク部隊をカルバラ付近の主攻から引き離し主渡河がHindiyahで行われると騙すことであった。3月31日の0600に、2個機械化任務部隊が側翼を掩護する中、4-64機甲任務部隊が、途中町を掃討しつつ砲兵と工兵の支援を受けて主道をHindiyahを抜けてユーフラテス橋へ向かった。抵抗は激しく、迫撃砲、砲兵射撃、そして至るところにあるRPGが建物や通りの角から飛んできた。防御していたのはフェダイーンと共和国防衛隊ネブカドネザル師団の第23歩兵旅団第2大隊であった。第3機械化師団と共和国防衛隊の部隊が衝突したのはこれが最初だった。戦車は1時間以内にユーフラテス橋西端を確保し、工兵が構体から爆薬を除去した後、その後数時間対岸の敵と戦闘した。防御側は民間人を盾や人質にして移動したり射撃し始めた。作戦は陽動だったので4-64任務部隊は川を渡らなかった。敵に防御に成功したと思わせて、午後遅くには第2旅団はHindiyah南東の国道9号の阻止陣地へと後退した。阻止陣地はイラク側にHindiyahで再度攻撃があると予想させるばかりでなく翌日の他の2個旅団の作戦を支援できるよう作られていた。

図43 2003年 バグダッドへの進撃 (訳注 省略しました) 

本当の攻撃は4月1日から2日の夜間に開始された。第1旅団が、右は3-69機甲任務部隊、左は2-7歩兵任務部隊を先頭にしてカルバラ地隙を前進、0700には驚くほど軽微な抵抗を受けつつ地隙を確保。共和国防衛隊のメディナ師団の抵抗が予想されていたが実際には無かった。第2旅団の陽動攻撃とあいまった対砲兵射撃により、イラク側のミサイルと砲兵による伏撃は発動する前に粉砕されてしまっていたのである。

目標Muscogeeはダムと橋梁の複合体であり地隙の北西隅に位置していた。Muscogeeは戦車任務部隊が特に注意を払っており、その間に機械化任務部隊がカルバラ市西部からの今やお決まりの不正規兵の攻撃を払いのけていた。橋梁とダムは4月2日0600に奪取され、地隙は昼前には掃討された。砲兵と攻撃ヘリの射撃が前進を支援し、とりわけイラクの砲兵を制圧するには役立った。第1旅団の部隊はカルバラを西から包囲し、第3旅団はカルバラの右へ運動して、いまやおなじみの役割として、カルバラを東から遮断する陣地を築いた。

師団の指揮官、とりわけ副師団長(機動担当)Lloyd Austin准将は地隙の迅速な奪取により得られた衝撃力を維持し、ただちにユーフラテス川の橋梁(目標Peach)に前進し川を渡ることを望んだ。0700前に第3旅団はカルバラ包囲と地隙確保の全責任を引き継ぎ、一方、第1旅団は目標Peachへの前進を準備した。配属された工兵旅団本部、第937も前進して地隙を抜ける交通を調整した。

第1旅団は目標Peachへ4月2日の正午に前進した。先頭部隊の3-69機甲任務部隊は橋梁の地域に大変速く到達し1500にはMusayyibの北である高速道路9号の二重橋梁の西岸を確保した。砲兵、近接航空、攻撃ヘリの支援のもと、第7歩兵連隊第3大隊の機械化歩兵と旅団戦闘団の工兵大隊下の工兵が川をゴムボートで対岸に渡りイラク側が爆破する前に橋梁を確保しようとした。この試みは半ば成功したにとどまった。工兵が止めるよりも早く敵は北側橋梁の爆薬に点火してしまった。爆発したが橋はなおも立っていたが、中央には大穴が開き、構造体の損傷により中央は下の川へたわんだ。けれども、南側の橋梁は無償で確保され、すぐに3-69機甲任務部隊が渡った。同日の残りと夜は橋頭堡の確保と東岸での不可避の反攻への防御、そして第2旅団が橋頭堡を通過して前進を継続する準備が行われた。

第2旅団はHindiyahでの陽動攻撃を終えたばかりで第1旅団に続いて目標Peachを超過してバグダッドの南辺の目標Saintsを確保するため前進する任務を負った。目標Saintsは国道1号と国道8号の重要な交差点を管制しており、ティグリス川以西のバグダッドを国南部から遮断する位置である。
早急に前進するよう促されて、第2旅団は当初地隙自体を通らずにカルバラの西部を通過しようとした。地理的には短かったが、この経路は機甲車両や装輪車両には不向きな軟地形だったり錯雑した地形を通っていた。道路網は貧弱、泥濘で、灌漑水路や運河がめぐらされていた。その結果、旅団の一部はとうとう引き返して地隙を通過せねばならなかった。こうして遅れてしまい、第2旅団が目標Peachに到達したのは4月3日早くだった。

第2旅団の到着を待つ間、第1旅団は橋頭堡陣地で大規模な良く調整されたイラク側の機甲攻撃を撃退した。メディナ師団の第10機甲旅団がおそらくは作戦全体を通して最高の反攻を第2旅団(訳注 On Point第5章の記述では攻撃を受けて撃退したのは3-69機甲TFで第1旅団)に払暁に行った。攻撃は質の高いものであったが、米側の防御は攻撃を撃退し、イラク側指揮官は戦死した。

反攻後に第2旅団は東岸へ渡河し、橋梁の警備に1個機械化任務部隊(3-15歩兵)を残して第1旅団を超越、バグダッド南辺へ達する北軸へ1個機械化任務部隊(1-15歩兵)を前進させた。

前進に対して、大部分は準軍隊で中には共和国防衛隊ネブカドネザル師団の部隊による軽微な抵抗があったが、3時間後に目標Saintsに到達した。機械化歩兵は4月3日の午後早く、近接航空と砲兵の支援を受けて車体隠蔽したイラク側機械化部隊や徒歩部隊と戦闘して目標を確保した。目標Saintsを巡る戦闘が行われている間、第2旅団は1個機甲任務部隊(4-64機甲任務部隊)を派出して国道8号を南へ国道9号との交差点まで確保した。メディナ師団の残部がその地域にいると思われていた。任務部隊は反対方向を向いて防御していた小規模のイラク機甲部隊を撃破、撃滅した。これはおそらくはHindiyahでの陽動攻撃の成功によるものであろう。第2旅団で最後に渡河を終えた任務部隊、1-64機甲任務部隊は1-15歩兵任務部隊に続いて目標Saintsへ向かった。その夕方には全旅団部隊が目標Saintsに集結した。バグダッドは実質的に南方向を遮断された。


目標Peachの確保後、第1旅団は目標Lionsとされたバグダッドの西側になるサダム国際空港on order mission随時命令任務を遂行する準備を整えた。旅団は目標Saintsへ向かう第2旅団の部隊の最後が超越するや否や進発した。が、多くの突発事が同時に起き、第1旅団は速度を落とした。師団偵察部隊である第7騎兵連隊第3大隊は第1旅団より前に前進して同旅団の左を確保するため、同旅団を超越せねばならなかった。旅団は渡河点の警備を最初は第2旅団が後置した大隊へ、ついで師団工兵旅団へと受け渡さねばならなかった。旅団の全部隊は渡河のため集合せねばならなかった。工兵部隊が追加されて橋梁を架けようと到着したところだった。前進は定刻に開始されたが、第1旅団の部隊は進発直後から隊形が伸びきり、隊伍が整わず四分五裂して目標に到着することとなった。

第1旅団の前進はまず目標Peachから国道1号へと繋がる、不便な田舎道を経由していた。国道1号はバグダッドの下部を北西から南東へと走る主要高速道路である。この路線に入ったら、旅団の部隊は高速をバグダッド空港施設まで1マイル半のところまで進み、そして空港に調整攻撃を行う。第7騎兵連隊第3大隊は旅団の前を進み、空港の北西にある主要幹線道路である国道10号との交差点まで国道1号を進む。ここで大隊は旅団が空港を攻撃する間、側面を防御する。4月3日の午後遅く、前進が始まった。第一段の田園を抜けての運動で、第1旅団は初めて肯定的な反応をイラク民間人から受けた。バグダッドから南にさほど離れていないところを通過する車両に対して歓呼する者がいたのだった。地形の制約と小規模の伏撃により運動は遅れた。それでもすぐに国道1号に到達し、旅団戦闘団は計画していた支援射撃を目標Lionsに対して開始。先頭部隊である3-69機甲任務部隊は2200少々過ぎに空港周辺に着いた。旅団の残部は後方に伸び切っていたが、3-69任務部隊は単独で攻撃を開始、大空港の施設群南辺へ前進し攻撃。攻撃を4月3日から4日にかけての夜間の間続けた。
任務部隊は外周を確保し、反攻を撃退した。旅団の後続部隊は払暁に到着し始め、2-7歩兵任務部隊は南から来て、施設群の東側にバグダッド方向に面して阻止陣地を確立した。

工兵や他の部隊が到着し飛行場から残党を掃討するのを手助けした。第1旅団は兵舎、複合施設、掩体を系統的に掃討したが、その間も準軍隊や時折T-72が空港外で米側目掛けて射ってきた。中隊規模の徒歩攻撃が撃退されたのは主としてある工兵小隊軍曹が破壊されたM113APCの50口径機銃に取り付いて致命傷を負うまで制圧射撃をしたおかげであった。第1旅団はバグダッドを西から遮断する主要作戦基盤を確立した。

第1旅団と第2旅団がバグダッドに向けて機動する間、第3旅団はカルバラ外部に留まり、市を遮蔽し、準軍隊の散発的攻撃を受け流しつつ第101空挺師団の交代を待っていた。4月5日に引き継いだ後、旅団は目標Peach渡河点を通り過ぎ、目標Saintsで第2旅団の作戦基盤に到達した。ここで旅団はタリルでの戦闘以来初めて、平時配属部隊の全てが再び戻ってきた。Saintsから、第3旅団は国道1号を国道10号との交差点で、第7騎兵連隊第3大隊が3日から保持してイラク側の攻撃を寄せ付けていなかった目標Montgomeryまで進みバグダッドを北から遮断する任務の遂行を開始した。目標Montgomeryから、第3旅団は途上、主要道路、交差点に阻止陣地を確立しつつ北東へ進み、ティグリス川にかかる国道1号橋を確保した。これらの陣地をまとめて目標Titansと呼ぶ。目標Titansを旅団はバグダッド陥落まで保持した。旅団の部隊は時折イラク側と戦闘しつつ、後には1個任務部隊を目標Lionsの防御支援に送っている。4月9日に旅団の部隊はバグダッド自体へと前進した。


バグダッドを孤立させた後、当初の計画では大都市の防御を慎重に探索していくことになっていた。が、情報の示すところによると、これにはバグダッドにあまりに米軍が近づいていることを知り驚倒していた共和国防衛隊大佐も含まれるが、積極行動によりバグダッドを街区戦闘無しで確保できる可能性があった。第2旅団が1-64機甲任務部隊を送り出し、目標Saintsから国道8号を北へバグダッドに入らせ、続いて西へと今やバグダッド国際空港に改名された目標Lionsへ強襲させ、ついで田園を通って目標Saintsに帰還したのだが、
この強襲の際に大佐を捕虜にしたのだった。
 
強襲に対する抵抗は激烈だったが、やり方は誤っていた。組織だった市街戦防御はされてなかったが、M1戦車1両が対戦車射撃が車体後面に命中して行動不能となった。敵射撃により戦車を安全に回収することができなかったので、その場で破壊され放棄され、そのまま目印となった。強襲の成功によりバグダッド中心街への大規模運動も大いに有望となった。

こうして、第2旅団がバグダッドから南にある目標Saintsにいるうちに、4月7日に市中心街へと前進し、旅団規模強襲を行えとの命令を受領した。成功した場合は、強襲は市中心の物理的占領へそのまま移行することになっていた。7日の早い時間に旅団は威力前進した。2個戦車大隊任務部隊が中心地域へ急行し主要施設を確保し、機械化大隊任務部隊が続いて補給線と枢要な交差点を確保していく。イラク側不正規兵はようやく無敵のエイブラムス戦車にRPGとトラック搭載機銃を使うことの不毛さが分かったので短時間の火力戦闘で、戦車大隊を通過させた。だが、機械化任務部隊、3-15歩兵任務部隊が空港とバグダッド中心部を蛇行するティグリス川の間の主要道路交差点を確保しようとしてくると敵の狂気が再びもたげてきた。目標Moe, Larry, Curlyと名づけられた3つの交差点で立て続けに白昼戦闘して、歩兵は無秩序な防御側を完全に駆逐し、一方、旅団の他の部隊は2時間で市中心部へと12マイルの前進を完遂して、主要橋梁やかつてのサダム体制の牙城であった、宮殿、政府施設を確保した。

第2旅団がバグダッド中心街へ前進しているとき、イラクの地対地ミサイルが目標Saintsの旅団の戦術作戦所に直撃し、多数の兵が負傷、この枢要な通信結節が2時間にわたり機能不可能となった。が、旅団編制の柔軟性と冗長性のある指揮統制能力によりこの直撃の戦闘作戦への影響は軽微なもののみだった。

機械化歩兵が通信線を確保し市内深くの前方部隊への補給が可能となったので、第2旅団の強襲はバグダッド中心街への留まるための動きに変わった。第2旅団そして米陸軍はティグリス川西岸を確保してバグダッド内に留まった。第2旅団はその場でさらに2日間、減りつ着実に回数は減少しているものの戦闘を続けた。第1海兵遠征軍の部隊が4月9日にティグリス川対岸に到着したことで、サダム体制の組織的抵抗は実質的に集結した。海兵隊が川東岸を確保し、彫像が引き倒されて、イラクの人々は解放の瞬間が訪れたことを実感したのである。

イラク戦争における第3機械化師団の熟達した旅団運用は50年を超える師団階梯直下の編制階梯における戦力組成の極致である。旅団は支援部隊や配属部隊とともに旅団戦闘団を形成し、複雑な戦闘機動を遂行するのに必要な柔軟性と戦闘力を備え、同時に複数の異なる戦闘を行い、寸地で任務を移行させる。ある時点では師団機動旅団3個がそれぞれ60マイルから75マイル離れた3つの別々のイラクの都市、ナシリヤ、サマワ、ナジャフ郊外で戦闘し、全正面は150マイルを超えていた。旅団の分散したり、そしてカルバラ=バグダッド間進撃のような作戦では集中する能力、単独でまたより大規模な編成の一部で戦闘する能力は米陸軍の編制単位としての将来が先行きの良いことを示している。


結論および旅団の将来
結論

機動旅団は1775年同様、2004年においても成長性のある戦闘隊形である。革命戦争における諸兵科連合旅団はしばらくして19世紀と20世紀初頭の間は単一部隊へと道を譲った。諸兵科連合が復帰したのは1963年の新ROAD旅団、その祖先、AOE旅団、2003年の旅団戦闘段、2004年のUA旅団が戦闘司令部任務部隊構想を実現して、旅団は師団の一部として、或いは師団とは別に作戦する真の機動と火力の中心となったことによる。

第1次世界大戦以前、旅団は米軍指揮官が軍を戦闘させる際の基本単位であった。この原因は歴史的に人員補充制度が貧弱であったためである。当時の人員補充制度では連隊の兵力は細るにまかされた。旅団は将官の指揮に適した規模であり続ける必要があったので、州政府でなく陸軍により維持された。それゆえ旅団は細らなかった。そのかわり、旅団は、より多くの小型となった連隊で再編されることになった。19世紀を通じて、指揮官は自分が機動させる旅団は、人員補充制度の状況や連隊の規模に関わらずおおまかに2000名であることを見込めた。

第1次世界大戦にはじめて恒久固定旅団が編制された。第1次世界大戦の4単位師団、そしてその固有旅団は大規模であり、塹壕戦での運用のための編制であって、旅団の柔軟性と機動性は損なわれていた。第2次世界大戦に師団が再編されると、旅団は完全に除去され、連隊がその役割を継承した。が、現代の機甲戦闘ではその流動性と任務志向戦術により、機甲師団では大隊階梯と師団階梯の間の戦術司令部として連隊や旅団に代わって戦闘司令部が用いられた。戦闘司令部構想、つまり、特定の任務を遂行するため暫時配属された部隊を除いては固有の部隊を一切持たぬ柔軟性のある本部は機甲作戦を遂行するのに大変有効であることが実証された。

1963年に陸軍は全軍にわたって戦闘司令部構想を採用、同構想を拡張してより伝統的な旅団の称号で部隊を改名した。この旅団は配属された機動大隊を統制し、師団からの戦闘支援及び戦務支援部隊により支援を受けるもので、今日まで続いている。

最近のイラクでの戦争では、旅団は基本機動単位として著しい役割を演じた。ある時点では第3歩兵師団(機械化)は地理的に大きく散らばった3つの正面で3つの別々の戦闘を戦っていた。それぞれの戦闘は増強旅団が指導していた。師団は旅団を連係して機能する独立実体として運用することで機動した。例えば、第3師団が互いに約50マイル離れたサマワとナジャフを同時に迂回しようと機動した際、1個旅団がサマワを封じ込め、残り2個旅団がナジャフを包囲するため機動した。サマワが引き継がれると、サマワにいた旅団はナジャフの2個旅団を迂回してさらに50マイル先のカルバラへ前進する。その2個旅団は引継ぎを終えるとバグダッドを奪取する作戦に参加するためナジャフ郊外からカルバラへと移動する。続くバグダッドへの直接前進では、1個旅団がカルバラを封じ込め、1個がユーフラテス川渡河点を確保し、3番目が超越してバグダッドに前進した。ついで渡河点を引き継いだ後、旅団は前衛旅団を超越してバグダッド空港を確保。第3機械化師団長は絶え間なく旅団を回転、あるいはめまぐるしく交代させて元気な部隊で主導権を維持し、そして同時に狭い前進軸と長い補給線の警戒と防御に給し、又同時に幾つかの大都市地域を後続部隊が任務を引き継ぐまで封じ込めていた。

戦闘航空旅団の機動旅団としての有効性と現実性については陪審員は今もなお協議中である。陸軍は機動旅団とみなしているが、戦闘航空旅団が実戦において機動戦力として用いられた史実はない。火力を投じる事に関しては師団砲兵や砲兵旅団もこなせるのであり、機動部隊であると主張したりはしていない。2003年のイラク戦争では第3歩兵師団の航空旅団は限定的に師団のために偵察と警戒任務を行いつつも、火力を投じる役割だった。


旅団の将来:ストライカー旅団と行動部隊

ここ数年、軍事理論家、もっとも著名なところではDouglas MacGregor大佐やJohn Brinkerhoffが陸軍は師団ではなく旅団を基礎戦術単位として再編せよと促している。MacGregorは師団を取り回し辛いが、大変に成功をおさめた古代ギリシャのファランクスに例え、旅団に基づくより柔軟な編制に軍配をあげる。しばしばあげられる論拠に欧州の軍隊、とりわけドイツの連邦軍は旅団基盤であり、師団は主として指揮統制本部となっていることがある。だが、これはドイツ軍が小規模であり中欧で戦闘することを志向していることを無視している。MacGregorもBrinkerhoffも旅団を直接軍団本部下に配し、指揮上で師団階梯を部隊編制から完全に除去している。以下で見るように師団は少なくとも予見しうる未来において、旅団がより独立的な役割と任務を果たすようになってはいるが残り続ける。

旅団と師団の今後といずれが陸軍編制の構築単位となるかは、軍の規模と将来の任務によるであろう。そして、以下に説明するUA/UEx(行動部隊/運用部隊)構想が2003年に出現する以前から、師団は主要単位ではあり続けているが旅団はいずれにせよかつては主として師団が担ってきた独立した役割を引き継いでいた。縮減後に規模を検討した結果、陸軍州兵は基本的に既に旅団基盤軍に転換済みである。現役部隊では駐屯地の問題からほぼ3分の1の部隊、31個中8個が編成上独立しているか、親師団から派出されている。SBCT計画では実質的に師団を編制開発上無視しており、旅団戦闘団が広く適用されていることからみて、多くの点で米国陸軍はすでに旅団基盤軍である。

旅団の陸軍編制主要単位としての将来は、元来はObjective Forceと呼ばれていた陸軍の将来戦力計画におけるUAとして主要な役割があることで安泰のようである。この計画は当初はストライカー計画、あるいは“暫定”計画の延長である。同計画は21世紀における統合環境で軍事目的を達成しうるよう技術進歩を活用する戦力、つまりFuture Forceを最終的に開発、配備することを目的とする長期戦力開発計画である。


戦力開発計画の一環として、陸軍は部隊運用階梯のうち2つに焦点をあてた。Unit of Employment運用部隊と呼ばれる、典型的には師団規模だが軍あるいは軍団規模にもなれる部隊と、旅団規模部隊のUnit of Action行動部隊である。UEx構想は現行の教義および編制から多数の革新的な変化をみせている。編成柔軟性、統合性、他軍種からの指揮を可能とする能力、戦域作戦あるいは戦域作戦の一部を指揮する能力などである。UAはこれまでの旅団単位編制構想と軌を一にしている。旅団規模であるUAは編制では規格性を考慮し、傘下部隊と能力を任務、環境、その他要素に応じて追加することも引き抜くこともできる。この点ではUAは1963年にROAD旅団が採用されて以来運用されてきた旅団編制体系に合致し、実質的には現行の非公式であるが、ほぼ行き渡っている旅団戦闘団の使用の延長である。最初に編制されたUAはストライカー旅団計画の自然の結末であった。ストライカー旅団UAはデジタル通信における進歩と、当時まだ開発されていなかったが迅速展開能力のある装甲戦闘車両を活用する高度技術部隊として組織された。編制構想では規格性をもって、陸軍のObjective Force任務部隊は図44に掲げるUA旅団の基本編制構造を開発した。

図44 UA旅団編制

旅団本部および本部中隊
諸兵科連合大隊×3(歩兵中隊×2 機動砲中隊 偵察分遣隊 迫撃砲中隊)
砲兵大隊
通信中隊
軍事情報中隊
ヘリ航空分遣隊(ヘリ偵察中隊×2)
前方支援大隊

図44 原注
・ 各部隊は規格性があり、任務に応じて編成替えされる
・ 歩兵、機動砲、偵察分遣隊は計画中のFCSを装備する

旅団は教義上、装輪装甲ストライカーかその後継車両に搭乗する2個歩兵中隊と同様に搭乗する中隊規模の偵察分遣隊と迫撃砲中隊に装甲砲装輪ストライカーかその後継車両を装備する機動砲中隊からなる諸兵科連合大隊3個を含む。これまでの編制と異なるのは旅団の補給部隊である前方支援大隊が固有の警備部隊を持ち、偵察部隊は2個航空騎兵中隊を含むことである。

ストライカーUA旅団に求められた任務は以下に概略を示す。

表19 ストライカーUAに計画されていた任務

交戦を調整する
(旅団以下で)独立して加入できる最小規模の諸兵科連合部隊
戦力を集中させずに効果を集中することを可能とする
どこであろうと96時間で展開可能で到着次第直ちに戦闘
高頻度で連続作戦する戦術遠隔交戦への移行
精密打撃を精密機動で補完する
位置の優位を獲得し維持する
現地の連合軍および非政府組織と連絡を取り合う

前章の通り、ストライカー旅団UAは手直しが入り偵察、捜索および目標捕捉大隊(RSTA)と呼ばれる機動大隊が追加された。2004年にUA施行計画が固まり(以下で論じる)、ストライカーUAを除外としてUA機動旅団の全てから1個機動大隊が除去された。ストライカーUAは3個諸兵科連合大隊とRSTA大隊を保持し続ける。まずストライカー旅団、ついで陸軍の重旅団も軽旅団も含めた全旅団でのUA化と、そして独立して加入できる最小の諸兵科連合部隊の確立は、これまでのAOE旅団、ROAD旅団、戦闘司令部といった機動旅団の歴史において全くの革新的な前進である。UAが陸軍における新たな基本機動単位となり、UEx師団は統制本部と援助部隊としての性格を強めるのは、米国陸軍の草創期、ワシントンが旅団を陸軍の基礎機動単位として使ったころへの回帰である。


2004年早く、陸軍はUA構想を陸軍全体で採用する計画を公表した。構想では規格性の概念を拡張して、旅団は自己完結し、あたう限り編制が同一である必要がある。それにより必要に応じて統制師団や任務を変えることが可能となる。師団は通常4個の機動旅団を統制する作戦本部としてありつづけるものの、本質的には陸軍の21世紀に向けての再編構想では基本戦術単位を師団から、旅団基盤規格化陸軍へと変えることになる。現有の軽旅団(歩兵、軽歩兵、空挺、空中強襲)と重旅団(機甲、機械化歩兵)は転換過程の最後には3つの基本型へと変わる。重(これまでの機甲と機械化歩兵旅団から転換)、中(これまでの軽歩兵師団旅団から作られる新たなストライカー旅団戦闘団)と軽(残りの軽、空挺、宮中強襲)である。

相互交換性のある規格性構想は専門部隊を退けた。これまでの専門化した空中強襲旅団と空挺旅団は専門化したまま残るが、他の軽UA旅団と同一に再編されることになる。本論文出版時点での計画目標は、これまでの師団の3個機動旅団から、同等な戦闘力を持つ旅団を4つ作り出し、師団航空旅団全てを標準化することである。このため、新旅団は3個機動大隊から2個へ縮小されたが、1個騎兵大隊、RSTA大隊がこれまでの旅団騎兵中隊に取って代わる。陸軍指導者らは新たな小型化した旅団はこれまでの大きな旅団と比べて1.5倍もの戦闘力を持つと主張する。より多くの小型化旅団が創設されることで旅団の交代と、個人毎で無く部隊毎の人員補充制度による展開が可能となり、作戦級での柔軟性が増大する。新旅団は第2次世界大戦の軽機甲師団における戦闘司令部の編制がもっとも似ている。その典型的な編制では、1個戦車大隊、1個機甲歩兵大隊、1個機甲砲兵大隊であった。この小規模な編制は1963年にROAD旅団が採用されるまで機甲師団で続いていた。


旅団に規格性をあたえるため、各重旅団(機甲、機械化歩兵)と各軽旅団(歩兵、軽歩兵、空挺、空中強襲)は同様に編制される。旅団はどの師団本部下でも活動できるようになる。新構想では陸軍内部で長らく論争されてきたのだが、重UA旅団の2個機動大隊は諸兵科連合編制となり、2個戦車、2個機械化歩兵、1個工兵中隊となる。これにより、各機動大隊の編制は同一となる。

2個大隊に編制された8個機動中隊はこれまでの典型的なAOE旅団における9個機動中隊が3個大隊に編制されていたのとよく対応している。RSTA大隊で3個偵察中隊が加わるので実際には新旅団は(AOE偵察中隊を計算に入れても)重UA旅団の場合その直系の先祖に比べて、1個機動中隊が純増となる。この編制を図45に掲げる。


図45 2004年における重UA旅団
旅団中隊大隊(本部及び本部中隊 通信中隊 憲兵中隊 軍事情報中隊)
諸兵科連合大隊×2(戦車中隊×2 機械化歩兵中隊×2 工兵中隊 前方支援中隊)
RSTA大隊(偵察中隊×2 UAV中隊)
砲兵大隊(砲兵中隊(8門)×2 前方支援中隊)
旅団前方支援大隊(輸送中隊 整備中隊 衛生中隊)

原注 固有の対空資産は無し
訳注 諸兵科連合大隊の兵科記号は1個は機甲、1個は機械化歩兵
砲兵大隊の記号は機甲砲兵


師団航空旅団も標準化される。各旅団は2個攻撃ヘリ大隊(アパッチ24機)、強襲航空大隊、(UH-60ブラックホーク軽汎用ヘリ30機)、1個中中隊(CH-47中貨物ヘリ8機)、指揮統制ヘリ中隊(ブラックホーク8機)、固有の航空整備、そしておそらくは中隊規模のUAV部隊から成る。師団は統合師団に似る。これまでのやり方では師団毎に異なる規模のAH-64大隊とUH-60大隊を持った航空旅団があった。

航空旅団が規格編制となるこの再編でもなおもこれまでの編制で見受けられた二面性は続いている。つまり、一方では攻撃ヘリ大隊のような機動戦闘部隊を統制し、一方では強襲航空大隊や中航空中隊といった管理/支援部隊である。航空資産全てを1部隊にまとめる要求によりこの二重性が生じ、航空旅団は真に機動部隊なのかそれとも師団砲兵本部のような管理舞台なのかという論争が将来も続くことになる。

図46 2004年における規格化師団航空旅団

師団航空旅団の再編は陸軍の戦力開発者が提唱した規格性の構想を反映したものでもある。軌道旅団と同じく、師団航空旅団もどの師団本部傘下でも戦闘可能である。

規格旅団再編が完結する2007年には、機動資産をUA旅団へ配分しなおすことで現役陸軍で新旅団が15個誕生し、15の陸軍州兵増強旅団は22のUA旅団戦闘団へと生まれ変わる。1960年代早期に最初のROAD旅団が誕生して以来、その独自の編制により旅団は大変に柔軟な組織であったが、UA旅団は相互交換可能な、規格化された編制により戦略級のみならず作戦級においても柔軟性を与える。1778年におけるジョージ=ワシントンの再編以来はじめて、旅団が陸軍の基本戦術諸兵科連合単位となる。師団は実質的に統制本部となることで、陸軍の将来は過去の大部分と同様に旅団に属すことは明確である。

本研究を終えるにあたり、旅団の編制を変更する必要や要求を支持する近年の歴史的事例はないことを指摘しておくべきだろう。最も最近の軍事作戦、とりわけ2003年におけるイラク作戦ではROAD/AOE型の旅団戦闘団の柔軟性を実証する傾向にあった。

図47 2004年における陸軍旅団再編

現役旅団 33個 予備役 15個  → 現役48個 予備役22個
重旅団 15個 → 重旅団20個
軽旅団 18個 → 中旅団6個 軽旅団22個
陸軍州兵独立増強旅団15個→ 22個


旅団が機動に柔軟性を与えるためさらに小さい部隊に解体されたことは一度も無かった。AOE構想では規格化部隊は戦闘や戦闘支援の大隊や中隊であり、旅団ではなかった。2003年の作戦では第3歩兵師団(機械化)師団長は特定の任務によって旅団を編成する権能があり、彼はしばしば行使している。UA旅団が旅団以上の階梯における柔軟性を加えつつ、同様の柔軟性を供せるかは見定めるべきこととして残っている。陸軍が同様の規模の部隊を旅団階梯で用いた歴史上の例としては、1943年から1963年まで続いた機甲師団の先頭司令部は新たなUA旅団と同様の編制であり、各1個歩兵、1個戦車、1個砲兵大隊である。

UA旅団において諸兵科連合大隊が採用され、実戦時と同様に恒常編制されるのは1963年のROADの採用以来、旅団における最大の革命的変化である。UA旅団は数が増加することにより、AOE旅団よりも一段高い柔軟性を陸軍作戦に供する。旅団階梯部隊の回転を向上させ、個人毎でなく部隊毎交代人事制度を旅団階梯で行えるようになる。旅団が追加されることによる高い柔軟性と同様に、部隊は新兵を受け入れている間、非即応であることが可能となる。これによる戦訓は旅団のこれまでの歴史というよりむしろ将来のものとなろう。

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コメント
この記事へのコメント
一応この長さでも大丈夫なのかな?
見てくれた方の編集についてのご意見を是非承りたく存じます。
 
2004/11/26 (金) 13:43:14 | URL | SBCT太郎 #-[ 編集]
今出している要望について
もっと長い論文で試してみて
掲載可能だったらこのまま行くべきか?
2ちゃんのスレ維持も考えないと
いけないし。
 あちらにトラックバック貼れたかな。
2004/11/26 (金) 13:44:50 | URL | SBCT太郎 #-[ 編集]
第3歩兵師団のバグダッド攻略まで終える
ということで修正してUPしました。

感想
第3歩兵師団の話に絞っているので
On Pointほど他師団に目配りをしていません。カルバラ地隙の前日の陽動についてはOn Pointではナジャフ、サマワでもそれぞれ第101、第82が市街に入り戦闘していることでユーフラテス川西岸全正面にわたり米側が圧力をかけた描写になっています。論文はここからは旅団のUA・UE化の話で全体の〆にはいるところに続きます。
2004/11/29 (月) 00:12:46 | URL | SBCT太郎 #-[ 編集]
第3部 下訳終わる
今後はROAD旅団を扱った第2部をやるか
他の論文を持ってくるか考えています。編制関係の用語をどこかで拾う必要あり。
2004/11/29 (月) 20:07:03 | URL | 北 #-[ 編集]
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