SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
バグダッド Amariyah地区の話
出典 Christian Science Monitor
URL http://www.csmonitor.com/2006/0601/p01s04-woiq.html?s=itm
原題 In the struggle for Iraq, tug of war over one Baghdad neighborhood
日時 2006年6月1日
筆者 Dan Murphy、 Awadh al-Taee
他掲載媒体 不明
発信地 バグダッド
内容
バグダッドの西部の旧政権退役軍人が多く住む地区にて宗派殺人が
始まるに至る経緯、イラク軍、米軍の対策と現状について。

位置はこちら。
http://maps.google.com/?ll=33.29018,44.285781&spn=0.013112,0.018325&t=k&om=1

#画像注記訳
敵対的:バグダッドのAmariyah地区にて昨年、たむろする男性ら。米軍およびイラク軍はこの流血の続くスンニ派地域を制しようと苦闘している。ハマーから撮影。
SCOTT PETERSON/GETTY IMAGES

#図注記
バグダッドのイラク国内での位置、バグダッド市外でのAmariyah地区の位置を図示したもの。

#全訳
Harithは内乱勢力がAmariyahに来たのは2004年4月の米軍による激しいFallujah攻撃のあとだったと話す。最初に聖戦士らが隠れ家にしたのは親戚の家で、その多くはサダム・フセイン政権時代の陸軍の退役高級軍人だった。

#以下全訳最後まで
新たな隣人達は夜に小銃や重機関銃をもって通りを徘徊し、米軍の巡回を狙って爆弾を仕掛けた。"ブラインド越しに覗いて彼らが米人(American)目掛けて通りから迫撃砲を撃つのをみた"とAmariyah地区のシーア派アラブ人であるHarithは思い出す、同人は名前を完全に出さないように求めた。"我々は彼らを無視するのが最も安全だとみた。彼らは我々をほおっておいた"

しかしそれは長くは続かなかった。隠れ家を手にしただけで満足せず、武装集団(militants)は一帯の住民と社会道徳を変え始めた。

"最初は単なるよそものだった、しかし、Fallujahで米国の行状を語る
連中に囲まれ、説教師が戦うのが義務だと語ると、若者の中から加わる者が出た"、2月にAmariyahから逃げた元住人のAqeelはこう語る。

ほどなくAl Qaeda in Iraqの指導者Abu Musab al-Zarqawiを称え裏切り者への死を約束する落書きが蔓延った。新たな宗教指導者(prayer leader)がモスクを乗っ取り、毎金曜日には拡声器から聖戦を求める要求を執拗に流した。女性に働かず髪を覆え、男性に髭を整えず短パンをはかぬよう警告するチラシが配られた。そして死体が街頭に見つかりはじめた。

Amariyaはバグダッドの富裕な地区で広大な米軍基地Camp Victoryに隣接している。同基地内にはバグダッド空港がある。Amariyahはスンニ派アラブ人過激派(extremist)が従来からの地区を乗っ取り作戦基盤にするのがいかに容易いかの例証である。

そしてここ6ヶ月間、かつてはフセインの取り巻きに人気で木陰ある庭園と広壮な屋敷のこのバグダッドの地区は、DoraやAdhamiya地区と同様におぞましく名も知らぬままの死と同意語となった。これらの地区は内乱側の支配を解こうとして起きている今行われている戦い、そしてイラク陸軍(the Iraqi Army)と米軍が内乱勢力を追い払おうとして面している厳しい戦いの例である。


米軍の帰還(The Americans return)

Amariyahの状況が余りに悪いので、ニューヨーク州Fort Drumの米陸軍第10山岳師団(10th Mountain Division)は2005年おそくにイラク軍へ移管した地区の責任の一部をこの3月に再び担った。

それ以来、イラク軍はこの孤絶した地区への主要な入り口二つに固定検問所を設け、打ち捨てられた邸宅を占め、また米軍とイラク軍が共同で数十件(dozens)の逮捕をした。暴力は低調になった。

しかし住民らはこの地区では今年Al Qaedaと連携しているスンニ派過激派により数百名が殺害されたと話す。多くはシーア派だが、スンニ派の店主、バス運転手、元バース党員もだ。暫くの間、縛られて切断された遺骸がかつてはにぎわったPublic Works Streetにある人気のあるHoney Sweets Shopの外によく捨て去られていた。店の大半は今閉まっている。

Amariyahの苦しみはイラク戦争の変貌をあらわにしている。無名のスンニ派アラブ人内乱者が主に米軍とイラク部隊を路肩爆弾と自爆攻撃で狙っていたものから、処刑部隊(kiling squads)、シーア派スンニ派双方ある、が非武装の市民同胞を狙うものへの変貌である。そして彼らは地区を恐怖の坩堝へと変えようと狙っている。ここ3ヶ月のバグダッド市民の死者数はおよそ3000名であり、3年間の戦争での米兵の死者よりも多い。

地区はフセイン下のイラクでの世俗的官僚の住まいであるが、イラクの迷宮の断層上にあり、西部の牙城からきたスンニ派内乱勢力とバグダッドの東郊外から進出してきたシーア派民兵との狭間でもある。


死者数は低下(The death toll declines)

ここ数週間、しかしながら地区の状況は良くなった。

"イラク治安部隊は良い仕事をして移動の自由を制限しており、攻撃は著しく低下した"と第10山岳師団第87歩兵連隊第1大隊長Bill Burleson中佐(Lt. Col.)は語る。

"ここ数週間は週あたり(市民)2,3名が殺害されていると思う。3月はマクロバス一杯、一度に15人の犠牲者を見つけることがあった"と同中佐。

しかし状況の好転が保たれるか、確実には程遠い。Amariyah地区を逃げ出したシーア派の一家は、同地区はZarqawiの支持者に乗っ取られたといい、すぐに戻るつもりは全く無いと話す。バグダッドでの流血は総じて衰えることなく続いている。水曜にはロイターが報じたところによると、先週は少なくとも100名、その大半はバグダッドで殺害されている。その報道では"警察はここ24時間内で首都の各所で42の遺体を発見。遺体は縛られ拷問を受けて撃たれていた"

なおもAmariyah地区に住んでいるスンニ派アラブ人は報復を恐れていると語る。もし米軍が引き揚げたら聖戦士とまたシーア派警察部隊の双方からの報復である。これは何にもまして紛争が様相を転じた度合いを示している。

2年前はスンニ派の多くは米国を主な敵とみていた。いまや警察にはシーア民兵が満ちスンニ派に暗殺部隊を送り出すとあっては、米軍はしばしば守護者としてみられている。

Amariyah地区は出入り口が限られており5千名をこえる米兵がいるCamp Victoryからはわずか3マイルにあり、再び落ち着く事は十分にありえるが、付近のDora地区やバグダッド中央部の密集したAdhamiya地区ではなおも内乱が根強い。近くのSadiyahでは国家テニスチームのコーチであるHussein Rashidが選手2名とともに土曜日に殺害された。地元住民は殺害は彼らが短パンをはいていたからだと信じている。これはスンニ派武装集団にとっては非イスラム的とみなされている。


彼らはシーア派を殺害し始めた('They started killing Shiites')

同地区に元住んでいたAqeelは内乱勢力が入ってきて、近所の者がそれに加わったと話す。

内乱勢力に加わったあるスンニ派アラブ人の隣人が目標の選び方を説明した言は、"この人がわたしにいうのは「もし米人に集中すれば、彼らは我々を粉々にひき潰す"、Aqeelは続けて"そこで彼らはイラク警察、シーア派、通訳、彼らがあまりに世俗的だと思う者を選んで攻撃する。彼らにとって楽だから"

Aqeelはある2月の早くの午後、Public Works Streetに食料雑貨を買いにいっていたときに家族をシーア派地区へ移すことを決心した。その通りにいるときに武装した4人が乗る白のOpelが角で音を立てて止まり、トランクから縛られた男性を引き出し、頭を二度撃つと走り去ったのである。

そしてしばしば、シーア派が狙われている。

"彼らはシーア派を殺し始めた、二三日につき一人だけだが、2004年11月のことだった"とHarithは語る。最初に殺された隣人はUmm Saadだったと思い出す。70歳の未亡人で小さな雑貨店を営んでおり子供のころは放課後に級友といったものだった。

"そして今年になって増えた。始終通りに死体をみるようになった。通りに警官が車の中に遺体で24時間も放置されていた。私が国家警備隊(the National Guard)にゆき遺骸を持ち帰るように言うまでそのままだった"

"今となって分かるのは、Amariyah地区はtakfiriの支配に少しずつ落ちていったということだ"とHarith。takfiriとは非寛容で暴力的なAl Qaedaのイスラム思想を共有するスンニ派を指す軽蔑を含んだ一般的な言葉である。

4月遅くに、彼の家の右隣のシーア派住人が地区を去るにあたって引越しトラックを持ち込むという誤りをおかした。そして幹線道路に出るまえに銃撃で斃された。

5月早くに、彼の左隣の小さい家に住む二児の離婚した母でメイドとして働いていたスンニ派住人が銃撃で斃れた。"彼女は働くのをやめるよう警告を受けていた" Harithと一家はその後すぐに逃げ出した。財産は全て後に置いていった。


内乱者を締め出す(Keeping insurgents out)

Burleson中佐は地区での暴力は峠をこえたと考えている。先月は中佐の部隊とイラク陸軍第6師団の1個大隊で内乱者6名を殺害、少なくとも12名の戦士を逮捕した。

"昨年の秋は、車に乗ってここを通れば、攻撃されることは請け合いだった"と同中佐。"先週は、善意を築くためにイラク陸軍が真夜中まで通りでゴミを集めていた"

5月早くのあるときにバンに乗った一団の男性が米軍とイラク側の共同巡回に銃撃を始めた。彼らは付近のモスクに逃げ込んだ。一帯を包囲して地元の族長に経緯を見守るよう段取りをして、"族長が居合わせることが噂や中傷を御するのに助けとなる"とBurleson中佐は言う、兵らがモスクに入り内乱者5名を逮捕した。

またBurleson中佐いうところの"武器の庭(weapons garden)"も発見した。迫撃砲、狙撃銃、そして航空機から投下されるよう作られているレーザー誘導爆弾が地面の浅い穴に隠されていた。

Amariyah地区の検問所をすべる若いイラク側士官のMohammed中尉(Lt.)、彼は姓名を明らかにしないよう求めた、はBurleson中佐の最近の好転という見方に同意するが、内乱者が舞い戻ってくるのは容易だと懸念する。

"支道の大半は封鎖して検問所を通して交通を流すようにした、それで遥かに制せるようになった"とMohammed中尉(Lt.)、同中尉の部隊がここ10日間で発見した死体はわずか7体のみ。4月は一日に3から4体が見つかっていた。

"しかし我々がこの手の統制を保たなかったら、何が起きるだろう? モスク毎に兵を10人ばかり駐屯できれば良いのだが。犯罪者はたいていモスクを根城とする"と同中尉。

元の住人らは殺害が完全にやんだら戻るかもしれないと話す。

"シーア派は地区の25%を占めていたものだった、今は一握り以上残っているか疑わしい"とHarithは語る。"最初、米国(the Americans)がイラクに入ってきたとき、我々は王になったと思った。我々はサダムを嫌っていたがいまやそのころが懐かしい。気に病むほどだ(It makes me sick)"
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
hhfgdgdf
Your guestbook is example of middle-class guestbooks. Congratulation! I?ll show your site and guestbook to my friends.
2006/12/15 (金) 12:21:22 | URL | Katie #mYz7i3Xg[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2005 SBCT関係論文翻訳 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。