SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
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愚者の渡しの防御 ボーア戦争における英軍小隊の戦闘想定
出典 CGSC CSI press
URL 略
原題 The Defence of Duffer's Drift
筆者 
Captain E.D. Swinton, D.S.O., R.E.
後の
Major General Sir Ernest Swinton,
K.B.E., C.B., D.S.O.
掲載 Infantry Journal1905年4月号(後のArmy誌)
内容 以下全訳

筆者について(About the Author)
少将Earnest D. Swinton卿、K.B.E.、C.B.、D.S.O佩用は著名な英国軍人にして文筆家、教授である。陸軍元帥Wavell伯は少将を英国陸軍において最も先見がある将校の一人と賞している。少将は第一次世界大戦前に航空戦(air warfare)、地雷敷設(mining)、心理戦(psychological warfare)の威力について著している。1914年、Swinton少将は戦車を発明して戦争を全く革新したのであった。少将こそが戦車の導入と開発に当たって誰よりも多くを担ったのである。

1925年から1939年、Oxfordにて軍事史教授(Professor of Military History)、その後少将に昇進して1934年から1938年まで王立戦車軍団司令官(Commandant the Royal Tank Corps)。

大尉のとき、ボーア戦争(the Boer War)での勤務からほどなくして愚者の渡しの防御(The Defence of Duffer's Drift)を後知恵深慮少尉(Lieutenant Backsight Forethought、BF)の筆名で著す。愚者の渡しは今世紀における小戦術(minor tactcs)に関する軍事上の古典となった。愚者の渡しのほか、多数の雑誌に寄稿し、1909年にはThe Green Curve、1915年にはThe Great Tab DopeをO'le Luk-Oie(Olaf shut-eye)の筆名で著した。このほか、1926年にはThe Study Of Warを、1935年には最期の著作となったAn Eastern Odysseyを上梓している。



背景情報(BACKGROUND INFORMATION)
ボーア戦争(THE BOER WAR)
ボーア人(the Boers)とはオランダ系農場主であり、今の南アフリカ共和国ケープ州(Cape Province, Republic of South Africa)に初めて入植したのが1652年のことであった。1806年に大英帝国がケープ州を併合した後、ボーア人の多くは大いなる旅路(Great Trek)につきナタール共和国(the Republic of Natal)、オレンジ自由国(the Orange Free State)、トランスヴァール(the Transvaal)を建国した。英国が徐々に商業を支配したこと、および金鉱とダイヤモンド鉱山が発見されたこと、その他諸事情からボーア人と英国人との間に敵対が生じ、1899年から1902年の南アフリカ戦争(the South African War)またの名をボーア戦争(Boer War)へと繋がった。

当初ボーア人は英軍に対して数で上回りかつ装備も良好であり、領土近傍では見事な勝利を収めている。最後にはボーア軍は降伏したとはいえ、英国側の勝利は大掛かりかつ連携のとれたゲリラ戦争(guerilla warfare)によって妨げられた。戦争が最後に終結したのはボーア人ゲリラ部隊の組織的撃滅によるものであり、敵対が終了したのは1902年5月のフェリーニヒング条約(the Treaty of Vereeniging)によってである。ボーア人の領土は大英帝国に併合され、8年後南アフリカ連邦(the Union of South Africa)に組み込まれた。


語彙(GLOSSARY)




鹿砦(ABATIS): 切り倒した樹木を枝を敵の方向に揃えて並べた阻塞

蟻塚(ANT H): 大きな円錐状の土盛り

ボーア人(BOER):  南アフリカのオランダ系植民者の子孫

ドンガ(DONGA): 南アフリカの雨裂または峡谷

渡し(DRIFT): 渡河点、小流または河川で徒歩あるいは騎乗して渡ることができる浅い箇所。

愚か者(DUFFFER): 無能でぶざまあるいは愚かな人物

カフィール(KAFFIR):  (19世紀)南アフリカの獰猛なる黒人部族

コプジェ(KOPJE): 南アフリカの露岩丘陵または残丘(butte) 通常200から800メートル

クラール(KRALLE(原文ママ、Kraalのことか)): 南アフリカ原住民の村で防御のため柵などに囲まれているもの


QUI VIVE: フランス語。歩哨の誰何の言葉。"そこを行くのは誰か?"

中少尉(SUBALTERN): 英軍の将校の階級で、大尉(captain)より下。lieutenantのこと。

草原(VELD): 南アフリカの草の生えた平原、合州国での西部卓状地(the Western Tableland)と同様である。

ヴィクトリアクロス勲章(VC): 英国の勇敢な行いを称える勲章で最高のもの、Victoria Cross



前書き(PREFACE)


"我らの過ちであった、そう極めて手酷い過ちであった、さてそれを逆用しなければならぬ、
過つ理由は四百万もあるが、言い訳は一つも無い!" キプリング(Kipling)


この夢物語は"うわべばかりの口先だけの奴(giled Popinjays)"や英国の"お雇い殺し屋(hired assassins)"に向けたものであり、とりわけ門戸を叩きつつある者、ごく若手に役立てることを狙いとしている。この物語は1899年から1902年の南アフリカにおいてなされたこと、なされなかったことどもを振り返ってのものである。空想的な装いにより古来からの戦理を実地に応用する必要性を強調し、用いられぬ場合に何が起きうるかを理解し、小作戦においても用いることが必要であることを伝える手助けとなることを願っている。この実地への応用はしばしば緊張時には視野に入らぬものであり、その結果は厳しいものとなるのだが、現実に経験するというおぞましき瞬間にいたるまで気付かれぬものである。この物語が、想像力を喚起し、今後において戦理の無視を一つでも防ぐのに役立つのであれば、書かれたのも無意味ではなくなる。
 この夢物語は予知夢ではなく、ある敵に対するある国のみでのささやかな経験の記録と、そこからの演繹である。しかしこの夢物語から、条件によっては他国において、あるいは異なる戦闘方法と異なる兵器を持つ異なる敵と対決する機会において適切な派生を演繹するのは難しくは無い。

"後知恵深慮(BACKSIGHT FORETHOUGHT)"記す



序段(PROLOGUE)


困憊する行軍後、夕方に私は夢村(Dreamdorp)に到着した。当地の雰囲気に大食があいまってこれから語る夢に繋がったのであろう。夢は続き物であった。全体の流れを分かりやすくするには、それぞれの夢の舞台は同一であるが、奇妙な精神過程により私にはその場所や一切を夢の中で思い出すことは無かった。それぞれの夢でその地は全く新体験であったし、率いる部隊も新たなものであった。かくて私には慣れ親しんだ地という非常な有利は無かった。一つ、そしてたった一つだけそれぞれの夢の間で受け渡しされたのは、それまでで学んだ一般的な戦訓をまざまざと思い起こせることのみであった。これにより最後には成功するに至る。

しかしながら、一連の夢全体は結びついたままで、目覚めたときも記憶にあった。



第一の夢(First Dream)



"穴に入るのはどんな馬鹿でもできる
(Any fool can get into a hole)" -古い中国の諺
"君に任せる、防御側はスペードを揃えている
(If left to you, for defence make spades.)" -カードゲームのブリッジの格言


私は孤独を感じていたが、全然寂しくなかった、私は愚者の渡し(Duffer's Drift)の近くで川岸に立って赤い塵埃が南へと去っていく遠くの隊列に巻き上げられ、午後の陽光で徐々に黄金色となるのを見ていた。丁度午後三時で、私はここthe Silliaasvogel川の岸にいた。我が隊下士官兵50名は渡しを守るため去り行く隊列が残置したのである。ここは重要な渡しであった、というのも川の上下数マイルにわたって車両が渡れるのは唯一ここだけだったからだ。

川はゆったりとした流れで、今は増水しておらず、ほとんど垂直の急峻な崖の間の川底をのろのろと流れている。崖はいずれせにせよ極めて傾斜が急で荷馬車(wagon)はこの渡しでしか渉れない。川縁から崖の天辺までと、崖の天辺からある程度の距離までは密な棘の茂みやその他の茂みで覆われており、視界を遮る幕となっている。また川岸には雨裂や穴がところどころあり、土壌が増水時の川により運び去られており、その結果極めて険しくなっている。



第一図(MAP 1)


渡しから大体2000mほど北に平頂の岩山があり、渡しからおよそ1マイル北東には良く見られる角砂糖のような残丘がある。南側は藪と岩に覆われて急峻であるが北側はなだらかなに下っている。南側の崖下には農場が一つある。渡しからおよそ1000mほど南には盾状の滑らかな丘があり、盆地を裏返したような形であり、まばらに小岩が散らばっている。この丘の頂上にはカフィール(獰猛なる黒人部族)の草葺泥小屋数軒からなるクラール(砦村)がある。川から北岸の残丘間での間に開けた平坦な草原となっている。川南岸も草原だがより波打っているものの同じく開けている。この地域全体にわたって蟻塚が点在する。

私に与えられた命令は愚者の渡しを全てを代価としても保持することである。おそらく3日から4日のうちに他の隊が来るであろう。それまでに攻撃を受ける可能性はある。しかし、その可能性はほぼありえない、というのも100マイル内に存在が知られている敵は存在しない。敵は砲兵を有している(the enemy had guns)。

ごく簡単なように思えた、このときはまだ一番末尾の情報の真の意味は身にしみていなかった。50名の"真の良き男たち"とともにあるとはいっても、なにかしら寂しく果て無き草原にほとんど一人で島流しにあったかのように感じる向きはあった。しかし攻撃を受ける可能性が私の中を満たした、そして私は我が部下が武人の熱情に溢れていると確信できた。ようやくのこと私がしばしば熱望していた機会が訪れたのである。これが私の最初の"出番"、最初の独立しての指揮であり、最後まで命令を果たすと覚悟を決めていた。私は若く経験も無い、これは確かだが、試験は全てかなりの成績で合格してきた。部下は良き性根の奴らで、称揚すべき栄えある連隊の伝統とともに、私が彼らに望むことは全て行うと分かっていた。また弾薬、糧食は潤沢に補給されており、つるはし、シャベル、土嚢その他も多数あり、告白するとこれらはむしろ私に押し付けられたのであった。

わが勇敢な小隊へと転じると、血みどろの必死の戦いの光景が心中をよぎった。最後の銃弾をも使い、そして冷たき刃を用い、最後に勝利するのだ、そこで控えめな咳が傍らでして私を現実へ連れ戻し、軍旗軍曹(colour-sergeant)が命令を待っていることを伝えた。

しばし考えたのち、私は小幕営を渡しのすぐ南側に設けることにした。そこでわずかに土地が盛り上がっており、可能なときは幕営地として選ばれるべきところだと私は知っていた。それにもまして、そこは渡しからかなり近いこともあった。これも有利な点であった、というのは誰もが知っている通り、何かを守るように命じられたらばそれに接して守りを固めるべきであり、可能であれば見張りをその天辺に置くべきなのだ。また、私が選んだ地点は川がその三方を巡るように馬蹄形で流れており、ある種の溝、或いは書物にいう"自然障害"となっていた。実にこのような場所が手の届くところにあり幸運だった。これ以上にふさわしい場所は無かった。


地図2(MAP 2)


私の達した結論は、敵は100マイル以内に居ないのだから幕営地に防御を施すのは明日からで良いというのであった。くわえて、部下は長行軍で疲れており、居心地良くしつらえ、山と積まれた備蓄と装備を整頓し、天幕を張り、暗くなる前に茶を淹れるだけで精一杯だろう。

ここだけの話、私は明日まで防御措置を先延ばしにできたことに本当のところ安堵していた。というのも何をして良いか少々戸惑っていたのだ。それどころか、考えれば考えるほど、一層戸惑いが強くなった。今のところ思い出せる防御措置は、一つ結び(thumb knot)や一重結び(overhand knot)の結び方や6インチ太の林檎の木を切り倒すのにどれだけ掛かるかだけだった。不幸にしてこれらの有用な知識も役立てられそうにない。さて、ワーテルローの戦い、或いはセダンの戦い、或いはブルランの戦いをせよという仕事であれば、私は全て分かっている、というのも私は詰め込み勉強をし、試験も受けたからである。また師団、いや軍団(army corps)の陣地構築の方法も分かっている、しかし、愚かなちっぽけの少尉のゲームである、小隊(small detachment)による渡河点防御は面白いことに最もまごつかせたのだ、私はこのようなことを本当に考えたことが無かった。しかし、普段軍団を扱っていることに照らせば、疑いなく少々考えればよいだけの児戯であろう。

しかるべく当座の命令を出すと、私は一帯を探検することに決めたが、暫しの間、どちらへ行けばと戸惑った。馬はなかったから暗くなる前にあたり全てを回ることはできない。しばらく考えて、閃いたのは明らかに私は北へ行くべきだということであった。敵の多くは北におり、当然ながら正面である。当たり前ながら私には正面というものが必ずあることは知っていた。なぜならこれまでやってきたあたゆる想定(scheme)や、受けてきた試験全てで常に正面、或いは"敵が来る方向"があったからである。鈍い歩哨から彼の正面はどちらで巡回区域はどこか言わせるのに何度てこずったことか。北はかくて私の正面であり、東と西が側面、敵が居る可能性のあるところであり、南は後方であり、当然ながら敵はいない。

満足の行くようにこんがらかった問題を整理して、私は歩きに出た、双眼鏡(field-glasses)、そして勿論コダックカメラ(Kodak)を携えて足取りを北東の残丘の下に構える小さなオランダ人の農場の輝く白壁へと向けた。南アフリカにしては居心地のよさそうな小さな農場であり、青いゴムの木と果樹に囲まれていた。農場から約四分の一マイルのところで所有者のAndreas Brink氏にあった、馴致された(tame)あるいは降服したボーア人農場主で、二人の子息がPietとGert、"彼らも良い連中"で、快活な顔に長い髭を生やしていた。Brink氏は私を大尉と呼び続け、訂正しても混乱させるばかりであろうから、する意味も無いと思い、それにつまるところ私は我が"隊(company)"からそう離れていないのであった。彼ら三人は南アフリカ憲兵隊長(Provost Marshal in South Africa)の酷で汚い仕打ちにはっきりと憤っており、そして私を案内すると言ってきかないのだった。彼らの農場を訪問することは考えていなかったのだが、大変感銘を受け、かくも豊かであるからには彼らは特別な人物に相違なかった。彼らは私を農場へといざない、そこでは良き妻と数名の息女が出迎えてくれ、牛乳を一杯いただいた。長い埃まみれの行軍のあとでは大変喜ばしいものであった。一家は全員、英語を話せるか理解できるようであり、大変友好的に会話をし、その中で私は近くにはボーア人コマンドー(Boer commando)が居ないこと、家族全員が二度とコマンドーが来なければ良いと願っていること、Brink氏は大変忠実な英国人であり、戦争には非常に反対していること、二人の子息ともどもコマンドーにかつて加わるのを強いられたことを聞き出した。彼らの忠誠は明らかであった。というのも壁には女王陛下の彩色石版画が掛けられており、私が入っていったときは多くの若き女性の一人が英国国家をハーモニウムで演奏していたのである。

農場主と子息らは私の個人携行物に非常な興味を示した。とりわけ新品で最新型の双眼鏡は、喜んで試し、何度も"凄い(Aller machtig)"と感嘆したのであった。父子は双眼鏡を明らかに気に入っていたが、戦時にコダックカメラがどう使えるのかについては見当もつかないようだった、私が一家の集合写真をとった後でも。おかしな、純朴な奴らだ!彼らは私から牛乳、卵、バターを幕営地で売る許可を得、そして自身と隊のために良いことができたと自身を褒めつつもぶらぶらついた。我々は一人としてこんな贅沢を数週間もの間嗅いですらいなかった。

何事もなく巡った後、私は歩みを薄く青色の煙へと向けた、穏やかな空気の中を垂直に立ち上っており、それのみが私のささやかな任所の位置を示していた。そして私が歩むにつれてこの光景全てが私に感銘を与えた。風景は暮れ行く太陽の暖かな日差しを浴びており、名残りの光が見渡せる中のそこかしこの高所を濃く染めており、近づく夕闇の静けさが破られるのは遠くで鳴く牛の声と、騒々しく聞き分けがたい幕営地の物音であり、私が近づくにつれて次第に大きくなっていくのだった。私はかなり快活な心持で歩んだ、農場主のBrink氏が教えてくれたあたりの地形のいささか風変わりな名前を思いつつ。彼の農場の背後にある残丘はインシデンタンバ(Incidentamba)と呼ばれており、北2マイルほどにある平頂な山は、悔やみの卓山(Regret Table Mountain)、そして川のすぐ南岸でなだらかに隆起する丘は洗い出し丘(Waschout Hill)と呼ばれている。万事は順調であり、私が戻ったとき部下達はお茶をしていた。親切なオランダ人は使徒のような顔をして、子息のひょろ長いPietとGertと一緒に既に来ていた。我が部下に取り囲まれ、法外な値段で商品を売りつけていた。一行三名は幕営地を歩き回り、あらゆるものに興味を示し、英軍や全般情勢に非常に知的な質問をし、強力な英軍駐屯地が近在にあることで本当に安堵しているように思われた。荒くれた兵がかれらを"畜生なオランダ人(blersted Dutchmen)"と呼んでも激高したりはせず、話すのを拒み、"侮蔑の言葉(skoff)"に応じないのであった。夕闇のころになって農場主と子息二人は帰り、明日には新鮮な品を携えて来ると何度も約束していった。

明日の命令を書き上げると、そのうちの一つは幕営地のまわりに塹壕(trench)を掘ることであったが、これは我が部下らは、良き英国兵士ではあるが、大変に嫌っており、疲れる活動だと思っていることを知っていた。見張りを二つ設け、うち一つは渡しに、もう一つは川を少々下ったところにつき、それぞれ川岸に歩哨(sentry)を一名づつ出す形となった。

全てがおさまると、幕営地はとても静かとなり、歩哨が半時間ごとに大声で報告するのもほとんど心地よかった。"第一哨、全て異常なし! 第二哨、全て異常なし!" この音で私は歩哨の位置をつかめ、適切な配置にいることがわかるのだった。真夜中の歩哨を巡ると、彼らが油断無いさまであるのをみて嬉しかった、また、寒い晩であるので歩哨はそれぞれ焚き火をし、その愉快な炎に影法師が、ここに英国軍の歩哨が誰何せんと聳え立つ彫像のように照らし出されるのであった。歩哨らに命令と、彼らの"受け持ち区域"の範囲、そして"正面"の方向について等々念を押して私は戻った。彼らの焚いた火は、歩哨らにとって快適であるばかりでなく、私の役にも立った。というのは夜間に二度外を見渡した都度に、天幕を出ることなくはっきりと彼らが配置についているのが見て取れたからである。私は最後には眠りに入り、ヴィクトリア十字章(V.C.)と殊勲章(D.S.O.)を交差して佩用し、赤章(red tab)を背中にまで回して飾るのを夢見た。

夜明けの空が灰色となるころ、私は突然目が覚めた、"止まれ、そこを行くのは...."としゃがれた声が紛うことなきモーゼル小銃(Mauser rifle)のパン、パンという音で遮られた。旅行鞄兼寝台(valise)から降りる間もなく、幕営地の回り全てからモーゼルの銃声が聞こえてきた、銃弾が地面や裸の者に当たる音、鉛玉が霰のように天幕を抜けて立てるかするような音、よろめき出ようとしたり、伏せていたところを撃たれた者の罵り、うめきと交じり合い大変な騒ぎとなった。部下たちがあてずっぽうに撃ち返してみたが、すぐに途絶えてしまい、私が天幕からやっとのことでもがき出たころには、あたりは髭面の男達で一杯で、彼らは倒れた天幕に向かって撃ち込んでいた。この瞬間に私は頭を棍棒で殴られたに違いなかった、というのも空の箱に腰を掛けて頭から血を滴らせて、部下の一人が包帯を巻いてくれているまでその後のことが分からなくなっていたからである。

損失は歩哨両名を含めて10名戦死、21名負傷であった。ボーア人側は1名戦死、2名負傷であった。

やがて、性格は悪そうではないが大変汚い格好のボーア人隊長(Boer commandant)の命令で、姉妹が編んでくれた粋な暖かいまだらのベストを私はむっつりと脱いだ。つい夕方の友人が非常に活発かつ親しげにごろつきどもと話し、"パパ(Pappa)"は、面白いことに小銃、弾帯、私の新品の双眼鏡を下げていた。彼は笑いながら地面に転がっているものを指差し、やがて足を乗せて踏み潰した。それが哀れなコダックカメラだと知り、私はぞっとした。ここで私の精神はしばし錯乱していたようだ、というのも気がつくとあるラテン語を繰り返していたのである、かつては好きな引用句だったが学校時代以来忘れていたものだった、"Timeo Danas et dona ferentes... 私はギリシャ人を恐れる、彼らが贈り物を携えて来るときですらも" そのとき突然、敵士官(field cornet)の声が私の呟きに割り込んできて、"ズボンもだ、大尉(captain)"と告げた。

一日中、他人の靴で靴下もはかず行軍し、ずきずきする頭にくわえて考えることは沢山あった。ボーア人の砲を含む長い隊列が、かくもやすやすと我の守る渡しを越えた光景は、私の失敗と我が哀れなる隊の損失に対する私の責任を絶え間なく思い出させた。私は徐々にボーア人から私が既にところどころ推測していた話を聞き集めたのだった。すなわち、敵は我が友人の農場主Brink氏に呼ばれて先導されて我が幕営地に至り、暗いうちに包囲し、川岸の茂みの中を這い進んで、哀れな歩哨2名に狙いをつけた。警報する暇もなく同時に撃ち倒すと、三方の密な茂みから幕営地へ殺到した。夕方が近づくにつれて、頭痛はひどくなり、周期的な痛みが次第に意味をなしはじめ、次のような戦訓を打ち出した。これこそ私の失敗についての徹底的な考察の結果であった。

1. 防御措置を明日に先送りするな。防御措置は部下の安楽や幕営地の整理整頓よりも重要である。主として防御の見地から幕営地の位置を決めること。

2. 戦時には敵と同じ血が流れる見知らぬ者に幕営地の一切を見せぬこと。彼らがとても親切でバターも沢山持っていてもである。また様々な"手口(passes)"に幻惑されてたちどころに彼らを信用してはならない。

3. 敵を含む全世界に向かって歩哨が位置を宣伝するなどはさせぬこと、炎に完全に照らし出され、半時間毎に騒々しく音を立てるなどといったことをさせぬこと。

4. 避けうるならば、銃弾が切り裂くときには天幕の中に居ないこと。そのようなときには地面の穴が多数の天幕よりも価値がある。

これらの戦訓が私の魂に何百万回となく染みとおっていった後、そして思い起こせぬことなど無くなったとき、奇妙なことが起きた。万華鏡のように変わったかと思うと、新たな夢を私は見ていた。



第二の夢(Second Dream)

"君はそれが何を意味するのか知っていたのだろうか? 戦の技はたちどころに身に着き、死が遥かに見えただけで即座に知識を得られるとでも?" Kipling

私は既に詳述した命令を受けて愚者の渡しにいるのに突如気付いた。隊の部下達は全く別人ばかりであったが、同様の編成である。前と同じく、そして以降の機会でも同じく、物資、弾薬、装備は潤沢であった。前回と立場は全く同一であったが、重要な違いがあった。私の脳裏を4つの戦訓が巡っていたのである。

命令を受けるとすぐさま、それゆえ、私は地形、暮れ行く太陽、わが軍の隊列に時間を費やすことなく作戦計画を立て始めた。我が隊の荷を降ろすと南へ去り行く我が軍の隊列は、すぐに見えなくなった。私は身に着けた戦訓全てと知っていること全てを実行する決意であった。

友好的であろうとそうでなかろうと、見知らぬ者が我が陣地に入り込み私が構えんとする精緻なる防御を調べるのを阻むため、それぞれ下士官一名と兵三名からなる検問所(examing post)を二つ、洗い出し丘の頂と、渡しから北岸へおよそ1000mの草原の中へと直ちに送り出した。彼らには、周囲を見張り、誰であれ人が近づけば警告を与え(ボーア人は勿論、ありそうにも無かったが、それでも可能性だけはある)、友好的であろうがそうでなかろうが人が営地に近づくのを止め、停止命令に従わなかったら直ちに撃てと命じた。仮に近づいてきた人物に売り物があるときは、見張りの一人が売り物の一覧表を持って来て、金とともにその人物のところへ戻ることとなり、いかなる場合においても営地のそばには見知らぬ者を寄らせない。


地図3(MAP 3)


間諜に対する自衛措置をこのように講じて、私は営地の選定へと進んだ。私が選んだのは前回の夢の場所と同じだった。理由も同一であり、私にはなおも説得力があるように思えた。塹壕に篭っていれば、一帯では最適の場所だと思ったのである。我が小さな営地を囲むこととなる、きっかりとした方形を線引きすると直ちに塹壕を掘り始めた。さて、勿論、北が正面である、そう私は考えていたものの、営地は全周防御をある種の障害として持つのが最善であろう。部下の大多数は掘るのを命じられ、彼らはいい顔はしなかった。ごく少数が天幕をたて、茶を淹れるのに割かれた。塹壕の長さは投じられる掘り手の数と比べて些か長すぎ、地面は硬かったので暗くなるまでに、部下達は辛い一日でかなり疲れ切っており、かなり低い胸墻と浅い塹壕ができたのみであった。それでも我々は塹壕に篭れた、これは大したことであったし、塹壕は営地全周を巡っていたから、仮に夜間や明日午前早くに攻撃を受けても我々の備えは良好であり、それに攻撃はほぼありそうに無かった。

この間、見知らぬ者一、二名が北の検問所にインシデンタンバ(Incidentamba)の下にある農場から近づいた。彼らは売り物の卵、バター、その他を持っていたので、手筈どおりに買い取られた。品を持ってきた兵の報告ではオランダ人の年長の方は極めて快活な男性であり、私にバターを一塊と卵を褒め言葉を添えて贈ってよこし、営地に来て私と話す許可を求めてきた。しかし、彼を防御の中に入れるような愚か者では無かったので、替わりに私が出向いた。これは彼が情報を持っている場合を考えてのことだった。彼の唯一の情報は近在には全くボーア人は居ないというものだった。彼は老人であり、手練手管の宝庫だったが、誑かされて信じはしなかった。彼は友好的であったし、忠実な可能性もあるが、私は辺りを見渡すために彼の農場への帰り道を中途までともに歩いた。暗くなって検問所の人員は二つとも戻って来た。そして私が見張っている対象のすぐそばに見張りを二つ立てた。すなわち渡しに前回の夢と同一の場所においてである。今回は、しかしながら、半時間ごとの点呼も、焚き火も無く、歩哨には営地の外に人影を見たら誰何せず直ちに撃つよう命じた。歩哨の配置は川岸で、天辺から外を丁度見えるだけの高さのところにであった。不必要に露出しないようにである。食事(tea)をとったあと、夕方には全ての火を消し、暗くなったら全員が天幕ではなく、塹壕に入った。歩哨が夜を快適に過ごせるか見回ったあと、私は任務を果たしている、防護措置は何も怠っていないと思いつつ身を横たえた。

夜明け直前、最初の夢で既に描いたのと同様のことが起きた。違ったのは茂みの中を動く何かに対して我が歩哨の一人が誰何せずに撃ち、それが営地に対して全周からの近距離射撃を始めるきっかけとなったことである。今回は敵は殺到(rush)してこなかったが、塹壕の各正面と、胸墻を越えたり突き抜けて銃弾がまったくの嵐となって飛び交った。
手を差し上げたり、頭をもたげるだけで十数発の弾が貫通したり周囲を飛び交った。そして奇妙なことには我々には誰も見えなかった。隊の剽軽者が悲しげに言ったように、我々には大勢のボーア人が見えるはずであった、"彼らの間の藪が無ければだが"。

日が明るくなるまで反撃で損害を与えようとして敵を見つけようとしたが無駄だった、余りにも多くの兵が撃たれ、完全に望みが無いように思われた、かくて私は白旗を掲げざるを得なかった。このときまでに24名戦死、6名が負傷していた。白旗が揚がると同時にただちにボーア人は射撃を止めて立ち上がった。射程100mまでのあらゆる茂みと蟻塚にボーア人が隠れていたかのようだった。この距離の近さが彼らの精妙なる射撃、そしてわが戦死者(ほぼ全員が頭を撃ち抜かれていた)が負傷者に比して大きな割合である理由であった。

連行される準備で集まっているとき、一つ二つ私が衝撃を受けたことがあった。一つは私に卵とバターを贈ったオランダ人がボーア人隊長と非常に打ち解けて話していることで、隊長は彼を"おじさん(Oom)"と非常な親しみを込めて呼んでいた。また近くの砦村からカフィール(南アフリカの獰猛な黒人部族)の成人男子が総出で連れて来られ、ボーア人の砲と荷馬車が渡しを越すのと我々から鹵獲した装備を積み込むほか、総じて半端な汚れ仕事をさせられているのにも気付いた。これらのカフィールは仕事をまるで楽しんでいるかのようにこなしていた。我が友人の"おじさん"から命令を与えられるとき、"口答え"は一切無かった。

またしても、私は痛む足で日がな一日歩きながら、この失敗をじっくり考えた。私は知っていることは全てやったのに、それでもなお、私はここにこうしていた、無様にも囚われて、24名が戦死し、ボーア人が渡しを扼しているのは奇妙に思われた。"あぁ、後知恵深慮よ"と私は思った、"既に分かっているのの他に学ばねばならぬ戦訓が二、三あるに相違あるまい" それが何か突き止めようと私は戦闘の詳細を振り返った。

ボーア人は我が陣地を知っていたに違いない、しかし、どうして発見されずに易々と撃てる距離まで近づけたのだろう? 川岸の茂みから撃つことでどんなにか大きな有利を得ていたことか、我々は彼らを見つけられなかったのに、我々は敵を探そうとするたびに胸墻の上に姿を露にせざるを得ず、そしてなによりもボーア人が我々が姿を見せると期待しているまさにその場所で身を晒したのだ。陣地にもある程度欠点があったようだ。時々胸墻を銃弾が貫通することがあったようだし、陣地のある側を通り過ぎた銃弾が反対側を守っていた部下に当たることもあった。そして全体として、"自然障害"である河床が防護としてよりはむしろ不利に働いたように思える。

次第に次の戦訓が私の頭の中で固まって行った、いくつかは新しいものであり、いくつかは先に私が身につけた4つの戦訓を補うものであった。

5 近代小銃(modern rifle)により、渡しやある地を守るということは(あたかもその地形がつまみあげられて運び去られるかのように)その上に居座ることを必然としなくなった、その地形がその他の理由が防御上の理由から保持するに適するというのでもない限り。守るべきその地点からある程度離れて防御陣地を構えるのが遥かに良いことがありえる、そして隠蔽地形(concealed ground)から離れること、隠蔽地形は敵が至近距離まで身を隠して悟られずに這いより、射撃するときですらも掩蔽から撃つのすら可能とする。可能ならば敵を開豁地に居させること、あるいはいわゆる開けた"射界"を持つのが良い。

銃弾を防げない胸墻や目立つものは銃弾を防ぐ代わりに単にひきつけるだけである。(#胸墻の)厚みは簡単に実地に試すことができる。ほぼ全周から至近距離で敵が撃ってくる場合、低い胸墻と浅い塹壕はほとんど役立たずであり、陣地のある側を守っていた者に当たらなかった銃弾が反対側を守っていた者に当たることがあるほどである。

6. 敵と血を同じくする見知らぬ者を備えから遠ざけるだけでは不十分であり、彼らがその友人にこちらの存在と居場所を教えるのを阻まねばならない。たとえ彼らが得た知識を伝えるという意図を有していない場合もである。料理本でいう"別のやり方"としては、より人命を節約できる方法として次のような手がありえる。見知らぬ者を十分な数だけ集め、暖かく挨拶する。数時間後には大軍がこちらに加わると胸一杯に十分に詰め込む。平仄をあわせて細部を彩り、ウィスキーや煙草と一緒に調味料を効かせて味をととのえる。これで至近のコマンドーにはほとんど十分であろう。コストとなるのは、大掛かりで口達者に嘘話をすることだが、人命は失われない。

7. 怠惰な者ども(彼らが兄弟同仁(brothers)であったり中立であったとしても)、疲労困憊した兵が急いで重労働をしようと骨折っているかたわらで、砦村で歯をせせっているのをほおっておく手はない。兵が怠惰な中立の者に労働の尊厳を教え、彼が他にゆき話すのを阻むため見張るのはむしろ義務である。

これらの戦訓がどのような忘却にもまさって頭によく焼き付けられるころに、奇妙なことがおきた。私は新たに夢を見始めたのである。


第三の夢(Third Dream)

"砲と一緒に茶を飲めば、もちろん、何をするかは分かるだろ、ホー、ホー!" Kipling
"So when we take tea with a few guns, o'course you will
know what do do-hool hoo!"

同様に晴れた午後、全く同一の条件下で愚者の渡しにいた。違いはいまや私の頭の中に7つの戦訓が巡っていることである。

私は直ちにパトロールを二隊送り出した。それぞれ下士官一名と兵三名からなり、一隊を北へもう一隊を南へである。
これらの隊は近在の農場および砦村全てを訪れて体の動くオランダ人男性および少年とカフィールの男性を、可能ならば説得により、必要ならば力づくで連れて来ることになっている。これにより我々の到着の知らせが付近のコマンドーに伝わるのを防ぎ、労働力の問題を解決するのにも役立つだろう。洗い出し丘の上に見張りとして少人数の隊(small guard)を置いた。

渡しが立ち上がって逃げ出すことはできないのだから、わが駐屯地或いは陣地をその付近に置く必要は無いと私は判断した。とりわけそのような陣地が川岸からの近距離の小銃射撃に置かれうるとあってはである。そして川岸は掩蔽として好適であった。川が馬蹄形にまがる内側は陣地として最悪のように思われた、そこでは敵が実質的に陣地を包囲できてしまうからである。そこで私が選んだのは地面が川岸からなだらかにあがった、渡しから南へおよそ700mから800mのところだった。そこに私は大まかに正面(北)に対して塹壕を掘るよう措置をとった。こうすれば正面に対して開けた土地が800mほどあることになる。通常の教則(rule)に従い、50名用に約50mの塹壕を掘り始めた。

掘り始めてから少し経って、パトロールが戻ってきた。オランダ人の男3名と少年二人に、13人ばかりのカフィールを集めてきていた。オランダ人たちのうちの長は学があり何か重きをなす人物のようで、自身のために塹壕を掘るよう道具を与えられると最初は頑なに抗議をし、様々な手練手管を用い、我々の虐待について将軍に苦情を申し立てるとか、さらには"議会"で問題にするとか大きなことを吹かした。これはしばし私を戸惑わせた、というのも議員が取り上げたら哀れな後知恵深慮に何が起きるか見当もつかなかったからだが、しかしウェストミンスター(Westminster)は遠く、私は心を鬼にした。最後には彼らは議論の論拠を理解するユーモアを持ち、というのはつまるところ、彼ら自身の身体のために必要だからである。つまり、仮に駐屯地が攻撃を受けるとすれば、掘らない限り開けた草原にいることになるのである。

カフィールはわが部下が疲れると有難くも手伝った。彼らはまた、我々の塹壕の背後、小さな谷の中に自分達のための穴を別に掘った。

夕方までにはかなりまともな塹壕を掘り終えた、胸墻は上端の厚さが2フィート6インチ(#1フィート0.3048m、1フィート=12インチとすれば76.2cm)で私は実際に試してみたところ、極めて防弾力があった。塹壕は一直線ではなく、二辺が斜角に繋がっており、より広い範囲を撃てるようにしていた(私が巧妙さを発揮したといえよう)が、各辺はそれぞれできるだけ直線になっていた。


地図4(MAP 4)


部下達にきっちりとした直線で掘らせるのがどんなに難しかったか、驚くべきことである。私はこの点にはとりわけ注意を払った、というのもある大尉(captain)が演習で上位の士官に塹壕が"雑然としている"と"叱り付けられた"のを以前に聞いたことがあったからである。明日"お偉方(brass hat)"がここいらに来て我々を検閲しないとも限らないし、何事にも備えていたほうがよい。

夕方tには洗い出し丘の見張り、彼らのところでも塹壕も掘り終えていた、に増援して6名とした。そして食事(tea)をとり明日の命令を与えたのち、我々は全員塹壕に入った。天幕は張らなかった、というのも我々は天幕に入る気はなかったし、我々の陣地を明らかにするだけであり全く良くないゆえである。捕虜、むしろ"客人"には警備をつけ、歩哨一名で彼らを見張った。

寝入る前に私は7つの戦訓を思い返し、成功するために役立つことは何一つ遣り残していないように思えた。我々は塹壕に篭り、銃弾からは良く守られた備えがあり、糧食と弾薬は塹壕の中で手の届くところにあり、水瓶は満ちている。適切なことは全てやり"お気に入りの幼い少年"となれることに満ち足りた思いで、やがて眠りに落ちた。

翌朝は明るく何事もなく夜が開け、朝食が出来るまでの間一時間塹壕の細部をさらに仕上げた。朝食が終わるころになって、洗い出し丘の見張りが北、悔やみの卓山の脇に砂塵が立っているのを知らせてきた。それは馬に乗った大勢が立てているもので、何らかの車を伴っていた。最もありえるのは敵であり、我々が渡しにいるのを知らずに行軍してきているように思われた。

敵が不審に思わずにそのまま来て、渡しを越えてこちらの陣地に気付かずに固まって来たら、大したこと(scoop)になると私は思った。身を低くして、前衛隊(the advanced party)を一発も撃たずに行過ぎさせて、本隊(the main body)が至近にくるまでひきつけて、その只中に弾倉一杯の射撃(magazine fire)で撃ち始めよう。そうだ、敵があのだいたい400m先の崩れた蟻塚まで丁度来たときに"撃て"と号令しよう。

しかし、そうはならなかった。少しして敵は停止し、明らかに何か考えていた。前衛の奴らは相談しているようでやがて次第にインシデンタンバの農場に非常に注意を払いつつ近づいた。女性が二人、三人走り出てきて手を振ると連中は農場へと直ちに全速で迫った。何が伝えられたかは、勿論我々には分からなかったが、明らかに女性は我々が到着したこと、その位置についての情報を知らせたのである。というのも反応は電光石火であった。ボーア人前衛は二つ大きな隊に分かれると、一隊は川の随分東へと馬首を向け、もう一隊は同様に西へ向かった。一名は得た情報を携えて本隊へと急ぎ馬を駆って戻った。すると本隊が活発になり、荷馬車とともにインシデンタンバの背後へと動き始め、そして見えなくなった。勿論、彼らは射程のかなり外におり、我々は構えも十分だったが、できることは彼らが開けたところで射程内に入って撃てるまで待つことのみであった。

時間はのろのろと進んだ、5分、そして10分が敵のその後の兆候が全くなく過ぎた。"失礼します、上官殿。あちらの残丘の頂上に何か見えるように思えます"と部下の一人がインシデンタンバの平坦な肩を動いている荷馬車のようにみえる数点のシミに注意を促した。私が双眼鏡の焦点をあわせている間に、丘から轟きが聞こえ、続いてごく近くの空中から鋭い音があがり煙が昇り、続いて音とともに塹壕の正面およそ200フィートのところに激しく降り注ぎ、その一つ一つが小さな埃を立てた。これは、勿論、御馴染みの"なんとまぁ、撃ってきた!"、"こうなると我々も長くは無いな"といった反応を引き出し、それはあまりに真実であった。私は愕然とした、私は砲撃を受ける可能性をほとんど忘れていたし、その存在を忘れていなかったとしても、私の今の知識では、どんな異なる防御措置をできるのか分からなかった。部下たちの間にいくばくか不安があるので、私はしっかりした塹壕と銃弾を防ぐ厚みある胸墻の中で安全だときわめて快活に、すぐさま叫んだ。"大丈夫だ。身を潜めておけ。そうすれば奴らは触れやしない" その直後、二発目が轟き、砲弾は音を立てて頭上を越え、塹壕からある程度背後の丘斜面に飛散した。

この頃までに、我々はできる限り胸墻に身を寄せてかがみこんでいた。ほんの少し前までは完全に思われたのに、この憎憎しい砲弾が空から破片を散らしてくるとあっては、いまや突如としてはなはだしく不適なように思えた。さらに一発轟いた。今回は砲弾はよいところで爆発し、塹壕の正面の地面全体に弾片が注ぎ、一名に当たった。このとき、洗い出し丘で小銃射撃が始まったが、こちらには弾は飛んでこなかった。ほとんど直後にさらに一発が続き我々の頭上に弾片が降り注いだ。さらに数名が当たった。彼らのうめきは聞くに堪えなかった。道具を握り、部下たちは狂ったように固い土をさらに深く掘り始めた、というのも我々の塹壕は嵐の風雨に対する茶の受け皿よりも守ってくれそうに無かったからである。しかし、遅すぎた。間に合うまでに地面に潜ることはできなかった。ボーア人は塹壕までの距離を細かいところまで把握し、いまや砲弾は頭上で恐るべき整然とした正確さで炸裂した。数名に当たった。そして敵が我々全員を殺すまで弾片を降らすのを止める理由は全く無かった。我々は何もすることもできず全く無力であり、私は白旗をあげた。私に出来たのは主に敵が速射砲(quick-firing field gun)を持っていなかったことを感謝することだけであった、"我々は長くは無かった”とはいえ、敵が速射砲を持っていたら白旗を掲げる前に完全にやられていただろう。

砲撃がやむとすぐに、大いに驚いたことには降伏を受けにインシデンタンバの砲兵陣地から降りてくるボーア人は全く見えず、三分以内におよそ50名のボーア人が東と西の川岸から馬を駆って現れ、さらに数名が洗い出し丘を廻って南から来たことであった。洗い出し丘の見張りは敵にある程度の損害を与えており、小銃で二名が負傷していた。砲弾はそちらへは一発も落ちなかったが、彼らがカフィールの小屋の近くにいたゆえなのは明らかであった。

私が初めてボーア人をみたとき、午前早くのときに抱いた心地よい期待からすると現実はかくもあっけないものなのか。

もちろん、農場の女性らが我々を裏切ったわけだが、ボーア人たちが農場の女性と会う前にまず停止して疑い始めたのかを解くのは難しかった。彼らは何を見つけたのだろう? 私はこの謎に全くお手上げだった。

その日の行軍の間に次の戦訓がゆっくりと導き出されてきた。そして既に学んだものに加えて心に蓄えられた。


8. 友好的な未知の人物およびその子息を集めて彼らが敵にあなたの存在や位置の情報を伝えるのを防ごうとするときは、仮にあなたが"奇襲という贈り物"を得ようと望むのであれば、未知の人物の妻、息女、召使男女(彼らにも舌はある)を忘れてはならない、そして彼の牛、ロバも(敵が使う可能性がある)。もちろん、彼らが非常に数が多く、極めて遠くに居るときは、これは不可能である。その場合は敵を奇襲することを望めないのみである。


9. 砲撃を受けるときは、低い胸墻の浅い塹壕は役に立たない、むしろそれよりも酷い。かりに胸墻が抗弾する厚みの10倍以上だった(bulletproof ten times over)としても。塹壕は敵砲兵が砲を向ける目標となる、そして弾片からは全く守ってくれない。良く狙いの定められた長距離砲撃に対してはこのような塹壕に身を寄せ続けるよりも開けた草と藪の中に、あるいは石や蟻塚の背後に散らばったほうがよい。部下が散開すれば、安んじて敵にわが塹壕の縁まで弾片で満たさせてよい。


10. 弾片を止めるには小銃弾を止めるよりも土の厚みは実際にはきわめて薄くて良いが、それには正しい方向に土が無ければならない。防護を得るには、天蓋(cover)のまさに下に居なければならない。塹壕の幅ができる限り狭く、側面と胸墻内面があたうかぎり傾斜が崩れない限度で急であれば、可能性は最も高い。塹壕の底部を広げると空間が広がってさらに良い、なぜならば塹壕の上端開口部をより狭めることができるからである。上端開口部が単なる細長い穴となればなるほど、入ってこれる弾片の数は少なくなる。

苦い経験から身に着けたこれらの戦訓をかみ締めるうちに、私はまた新たな夢を見た。



第四の夢(Fourth Dream)

"どんな力がこの贈り物を我々に与えられようか、他の者が我々を見るがごとく自身を見るという!"
0 was some power the giftie gie us, To see oursels as
others see us!"
BURNS(#Robert Burns、スコットランドの国民詩人
To A Louse
On Seeing One On A Lady's Bonnet, At Church
1786
Type: Poem
http://www.robertburns.org/works/97.shtml )


再び、私は同じ問題に直面していた。今回私を導くのは10の戦訓である。私は前回の夢で描いた通りにパトロールを送ることから始めた。しかし命令は少々異なっていた。人は全員わが駐屯地に連れて来られること、敵の役に立ちそうな動物は全てを射殺すること、これは動物のための場所は無いがゆえである。

防御陣地については前回の夢で既に描いた場所を選定した。既に述べた理由から大変適切であると思われたのである。必然的に既に述べたのと同様の計画で塹壕を掘ったが、敵が砲を使う可能性を恐れて、塹壕の各辺はかなり異なっていた。計画では全体として北を向いており、正面に向かってかすかに両辺を下げ加減であるが、各辺はかなりまっすぐである。各辺の深さは3フィート6インチ(#106.68cm)、胸墻は正面からは高さおよそ12インチ(#30.48cm)、塹壕の上端幅は自由な移動が損なわれぬ限りでできるだけ狭くした。各員は塹壕下部をそれぞれにあうように広げ、各自の持ち場の胸墻を背丈に合わせて作った。胸墻は上端幅がおよそ2フィート6インチ(#76.2cm)で、内部の傾斜はかなりきつく、壊れた蟻塚のかけらから作られていた。このかけらは石とほぼ同じくらい堅いのである。

ほどなくパトロールが成人男女子供、数名を連れて戻ってきた。女性らは役立たずの悪態をついてばかりで命令に従うのを拒否し、事態を男性と比べてあまり哲学的にとらえていなかった。ここは明らかに私がかつて副官(A.D.C.、 # aide-de-camp)だったときの短期訓練を生かす機会である。そこで使ってみた。私は女性らに最大限丁重に接してあまたの"手管"を用い、オランダ語での唯一の慰めの言葉である"Wacht een beetje"と"Al zal rech kom"を繰り返したが、全く効き目は無かった。彼らは手管が分かるような育ち方はしておらず、一切受け付けなかった。私は無念に軍旗軍曹(the colour-sergeant)へと振り向き、まばたきをしてみせつつ厳粛かつはっきりと、軍曹の左まぶたが応じかつ敬意を持ってまばたくのをみつつ言った、"軍旗軍曹"

"上官殿?"

"農場に火を放つに最良の方法は何かね?"

"そうですね、上官殿。大きな寝台と藁を選ぶのもいるでしょうが、私はハーモニウム('armonium)と灯油を少々一角にまくのに勝るのは無いと思います"

それ以上の必要は無かった。淑女達はこのような手口ならば非常に理解する。問題は終わった。


地図5(MAP 5)


オランダ人とカフィールはただちに自身および女性子供のために避難場所を掘り始めた。女性子供は一箇所に集められて塹壕から遠くない小さな谷に置かれた、というのも彼らを本当に深い塹壕に入れる必要があるからである。これは第一に彼らの安全のためであり、第二に敵に手を振ったり、信号を送ったりするのを阻むためである。この谷のおかげで、それゆえかなり掘る手間が省けた、というのも谷底を掘り広げて少々削るだけで立派に使えるようになったからである。

全員が熱意を持って堀り、夜までには女性子供および男性捕虜の避難場所、射撃壕(firing trench)がほぼ仕上がった。見張り、歩哨に関する措置は前回の夢で記述したのと同一である。そして全て正しく行われており淑女らが下に潜り込めるよう天幕が与えられ(彼らは自分で毛布を持ってきていた)ているのを確認し、わたしは防護がよくなされているとの思いとともに眠りについた。

翌朝の夜明け、敵の兆候は全く無かったので我々は塹壕をさらに改良し、必要なところでは深さを変えたり調整し、各員の脚の寸法に合うように塹壕を整えた。最後には塹壕は極めて快適に、"ほとんど母の手作りのように素晴らしく"なり、真新しい赤土が草原の黄色とよい対照をなした。わが予備役兵(reservist)の一人が言ったように、牡蠣やジンジャービール(edging of oyster shells or gingerbeer bottles)があれば郷里のちいさなブロッコリー畑のようだ。これらの重要な点を踏まえつつ、朝食として2時間たっぷりが過ぎ、北に前回の夢と同様の位置で敵が報告された。前回と同じように敵は進んだが、勿論、前衛は農場で誰にも会わなかった。私はこれをみて、自身をねぎらいつつも穴の中のオランダ人淑女らに微笑みかけずにはいられなかった、すると彼女らは私を睨みつけ、(声をひそめて)唾を吐きかけてきた。

敵の前衛隊は近づき続け、農場をすぎるときは注意深く様子を伺い忍んで通り過ぎた。敵はほとんど無警戒のようであったので、私は奇襲できるかもと思った。全く我々の存在に気付かないところを、近距離からの一斉射撃(close-range volley)、そして敵の只中に弾倉を空に射撃(magazine fire)して。そこで突然敵の一人が停まり、他の者がその周りに集まった。このときおよそ1800mも離れており、インシデンタンバの切れるあたりの高さのところであった。かれらは明らかに何かを見て、危険を嗅ぎつけたのだ、というのも短く話してあちこち指差していたからである。伝令が本隊に馬を駆って戻ると、本隊はインシデンタンバの背後で、荷馬車やその他とともに道を曲がった。白馬に乗った一名を含めた少数が西へおおまかに道をとった。この動きの目的はよく分からなかった。この隊は何らかの車両の類を伴っているように思えた。前衛隊は既に前回の夢で描いたように二手に分かれた。敵は全て遠くにいるので、我々ができるのは待つことのみであった。

ほとんどすぐに、インシデンタンバの頂上で砲が轟音を発した。そして我々から程遠くないところで榴弾(sharpnel shell)が炸裂した。二発目、三発目が続き、その後は我々までの射程を正確につかみ、我々のまわりで砲弾が炸裂し始めた。しかし、我々はきちんとした深い塹壕に居心地良く安楽におり、満足して身をかがめているのだった。敵が立派な価値ある榴弾を浪費しているのは我が部下を非常に面白がらせた。部下の意気は高く、一人が述べたように、"隙間に入っているごきぶりのように居心地がよい"のだった。多数の弾を消費してたった二名、それも脚に当たっただけであった。

しばらくして砲撃は止み、我々は直ちに胸墻で配置につき攻撃を撃退すべく立ち上がった。しかし、我々はボーア人は見ることができなかったが、大気はあっという間に銃弾の擦過音とうなりで満ちた。ほぼ全てが正面、北および北東の川岸から来るように思え、胸墻にあたるたびに埃が噴きあがりそれが絶えることは無かった。我々にできたことは川岸のそれらしきあちこちの茂みに音を手がかりに撃つことであり、我々はあらゆる努力をこれに注いだが、眼に見えるほどの結果は無かった。

およそ15分後、最も露出する部分である頭部を撃ち抜かれた者が5名となった。射撃しようと頭をもたげるだけで、絶対に命取りとなるように思われた、これはこれまでの夢で身を潜めた敵に対して胸墻越しに至近距離で敵を撃とうとするときにも起きていた。石や蟻塚のかけらで賽の河原の石積み(house of cards)を始めた哀れな者を二人みた。これは胸墻の上に煙突があるくらい眼を引きやすく、彼らが使う前に粉々に撃たれてしまった。しかしこの事態を解決する手を私に思いつかせてくれた。そう、このような場合は、我々は"天蓋(head cover)"と"銃眼(loopholes)"が必要なのだ。いつもの事ながら、事が起きてから私は知恵が働く。今作れる可能性は全く無い、仮に我々が忙しくなかったとしてもである。突然射撃音がさらにもっと激しさを増し、しかしあたりの土にあたる銃弾の衝撃があまりに間近であり、この新たな射撃がどちらから来ているのか分かるのはたやすくなかった。同時に部下達が倒れるのもさらにしげくなったように思えた、そして私が彼らに正面に活発に射撃し続ける必要性を念押ししようとしたとき、胸墻の内側に弾が当たるのを見た。

これで明らかとなった、敵は明らかに我々の背後の谷にいた。(後方であったので私は何の注意も払っていなかった谷である)。そして我々が胸墻に立ち上がると背後から撃っていたのである。

これが"背後を突かれる(taken in reverse)"に相違ないと私はおもった、そしてその通りであった。

何が起きているのか把握したときには、既に十数名の部下が斃れていた。そこで私は全員に塹壕に篭り、正面か背面を撃つときだけ身を出すように命じた。しかし、正面に対してと同様背面についても何もできなかった。状況は同じだった、ボーア人は一人も見えなかった。この瞬間、洗い出し丘の見張りのうち二人が我々の塹壕へと駆け出してきた、そして彼らを包むように激しい一斉射撃が始まり、彼らが走るにつれて、その周りは銃弾がたてた埃の雲となった。哀れにも一人は倒れたが、もう一人はなんとか我々の塹壕まで辿り着き倒れこむように入った。彼も手酷く撃たれていたが、彼と駆け出したもう一人を除いては洗い出し丘の見張りは全員戦死か負傷し、ボーア人たちが次第に頂上へと途を開いたことを息をきらせつつも告げた。まことに意気のあがることであった。

射撃が余りにも激しく地面から頭をあげた者は一人残らず撃たれるほどであった、そこで屈み込んだままで狙いをつけずに塹壕の縁から小銃を出して撃つだけにして、暫しの間だけ損害を出すのを押さえられた。この手はしかし、すぐ使えなくなった。というのも塹壕の右辺の者が十分身を潜めて全く身を晒していないのに不意に斃れ始めたのである。やがて私はこの原因を発見した。洗い出し丘の頂上に敵狙撃兵(sniper)が到達して、我が塹壕の右辺を撃ち下ろし始めたに相違なかった。銃弾がますます多く飛び込み始め、狙撃兵の数が増しつつあることは明らかであった。

これが"側面から縦射を受ける(enfiladed from a flank)"に相違あるまいと私は考えた。そしてその通りであった。

命令もいらず、我々は本能的に塹壕の右辺を空けて左辺へと這って入り込んだ。左辺が川南岸のどこからでも縦射を受けることは無いのは非常な幸運であった。さらにはいかなるところからでも小銃射撃によっては不可能であった。というのも地形上、左辺を右に延長していった先は北岸の草原の中およそ3000mのところだったからである。

我々は罠の中の鼠のようにほとんど無力に寄り集まっていたとはいえ、突撃以外には敵は何も出来ないと考えるのはわずかばかりの慰めとなった。そこで我々は銃剣(bayonet)を着けて押し黙って待った。敵が突撃してきたら、我々には銃剣があり、敵には無い。そこで取っ組み合いで我々の命を高く売りつけてやることが出来るだろう。

あぁ! 私はまたもや裏切られたのである。肉弾戦と利器(cold steel)の出番は無かった。というのも突如、我々が耳にしたのは北のほうの草原は遠くから、誰かが錫の容器を叩くような音であった。そして小さな砲弾一連射が塹壕のすぐそばの地面に着弾した。うち二発は地面に着くなり炸裂した。小銃の射程外、北の開けた草原にボーア人の一隊が白馬と車両とともにいるのが見えた。こうして私にも分かった。しかし我々がどこに居るのかを知るまえにどうやって我が塹壕を縦射できるまさにその地点を探り当てることが出来るのだろう?

ふたたび、ポムポム、ポムポムと音がして、小さな鋼の悪魔が我々のいる砲弾受けの真ん中へと飛び込み、7名がめちゃくちゃにされた。私は職業のなせる大いなる極致から状況をたちどころにみてとった。我々はいまや両翼から縦射を受けている、しかし我々の役に立つにはこの知識を得るのは遅かった、というのも、

"我々は事務方の長の雌豚の太鼓腹のように丸裸で、北海の嵐に晒されている"
"We lay bare as the paunch
of the purser's sow,
To the hail of the Nordenfeldt."


これが最後の一本の藁だった。降伏するかさもなくば長距離から完全に撲滅されるかだった。私は降伏した。

ボーア人はいつものように辺り中から立ち上がった。我々は3時間戦い、戦死者25名、負傷者17名であった。そのうち正面からの弾片や銃撃による負傷はわずか7名であった。その他は全て側面、つまり敵はわずかしないはずのところや、背面、全く敵はいないはずのところ! から撃たれて死亡あるいは負傷したのであった。この事実は私の正面に関する先入観、そして他の方角に比しての正面の危険度について、かなりの修正が必要だということを納得させた。これまで私が抱え込んできた考えは仮借なく拭い去られ、疑いの海につかり、何か確実な、しっかり掴まれるものをもとめて手探りするのであった。詩人のロングフェロー(Longfellow)があの不滅の詩句、"物はそうみえるのと同じではない(Things are not what they seem)"と書いたとき、彼は私の立場にあったのだろうか?

全ては隙間(crack)からさきゆき良く始まったというのに、完全な敗北にまみれ、生き残った者は当然のことながら少々意気消沈していた。これは様々な形で現れた。ある兵が耳の穴に布切れを詰めていた伍長に言った。

"何かおかしいです、私が思うに、この縦射騒ぎとか。敵がどちらから来るか全く分からなかった。本当にうんざりです" するとこれに暗い調子で答えがあった、"縦射されたかって? もちろん我々は縦射されたんだ。この塹壕は折れ曲がりを少々つけるべきだったんだ、そうすればそんなに縦射されることもなかったろうよ。そうだ、折れ曲がりだ、そうしてしかるべきだったんだ" これに三人目が割り込んだ。"そうとも、そして敵の奴らが背中から撃ってくるのを防ぐなにかがあってもいずれにせよ害にはならなかったろうよ"

地上には私がこれまで自分の哲学ではゆめゆめ思いもよらなかったようなことがまだまだあるのだ!

ボーア人の見張りを付けられて北へと歩んでいくあいだ、上のような細かな点が私の心に染みとおっていった。しかしなぜ我々は敵を奇襲するのに成功しなかったのかの謎はしばらくの間解き明かせないでいた。我々の到着を知る警告を与えることができた男性、女性、子供、カフィール(南アフリカの獰猛なる黒人部族)はいなかった。かれらはどうやって我々の存在をあんなにも早く突き止めたのだろう? 午前中のあの停止と相談のときに明らかにこちらを突き止めていた。インシデンタンバを過ぎるとき何気なくたまたま辺りを見回して敵の視点から戦場をみて、この謎の単純な回答をようやく発見したのだった。渡しのすぐ南のなだらかな黄色の草原の坂の中に赤茶色の線が一筋あった。これは懐かしきサセックスの田舎のウィルミントンの巨人(the Long Man of Wilimington)ならば大声をあげて、"ホゥ、ホゥ! これは英軍の防御の構えじゃな"というくらい一目瞭然であった。間抜けなアリック(slick Alick)のようにばればれの塹壕の中に座って誰かを奇襲できると期待していたとはと沈鬱に私は微笑んだ。

縦射され背面を突かれたことをおいても、至近距離から身を隠して撃ってくる敵に対し、射撃するために定点に姿を見せざるをえぬため我々はまたしても不利であった。

やがて、私は次の戦訓を得た。


11. 小さい孤立した陣地(post)と積極的な敵の場合は、側面、背面というのは一切無い。言い換えれば全周が正面である。

12. 背面を突かれる可能性に留意せよ。守備を配置し措置するときは、塹壕正面の敵を撃っているときに敵の一部が背後から忍び寄って撃ってこれないようにすること。

13. 縦射される可能性に留意せよ。側面から縦射されると酷いことになり、両側面からされると一層酷いことになる。

また小銃射撃により縦射されないように措置した場合でも、長距離からの砲やポムポム砲(pompom fire)といった手段に対しては開けっぴろげになっていることがある。どこからも縦射されないような直線塹壕はほぼ無い、敵がそこへ到達できればであるが。ときには延長線上に、到達して撃ち下ろせないところに塹壕を掘ることで避けられることもある。あるいは塹壕をジグザグに掘り、直線としないことで、或いは塹壕に土橋(traverses)を設けることで、或いは二、三名ごとに別壕を掘るのも良い。

14. 見渡せず保持することもできない高所の近くに塹壕を設けてはならない。

15. 囲いの中の羊のように、小さな塹壕に兵を全て集めてはならない。広い余地を与えよ。

16. 既に導いたように、視界から身を隠す隠蔽のほうが、弾を防ぐ掩蔽よりも勝ることがしばしばである。

隠蔽されていない塹壕からの近距離射撃(close shooting)については、天蓋のある銃眼が有利である。これは銃弾を防ぎ胸墻の上に目立つように置いてはならない、つまり敵火を引き付けるところでないこと。さもないと銃眼がないときよりも遥かに危険となる。

17. 敵を奇襲するのは非常に有利である。

18. 奇襲の利を得んと欲するならば、陣地を隠蔽せよ。昇進のためには陣地を見せびらかすのが良いかもしれないが、防御のためには異なる。

19. 隠蔽やその他陣地について検査(test)するときは、敵の視点から見ること。



第五の夢(Fifth Dream)


"わずかばかりの惨めさが勘定書きにもう一行加わった"
"A trifling sum of misery
New added to the foot of they account"
DRYDEN.

"ジャック・フロストはある静かな晴れた晩考えた、
そして言った、"僕は視界から消えて、谷を越えて、高地を越えて
静かに道を行こう"
"Jack Frost looked forth one still clear night,
And he said, 'Now I shall be out of sight,
So over the valley and over the height
In silence I'll take my way."
GOULD.


再度、私は新鮮な心と望みを持って同一の課題に対していた、私のこれまでの試みで今手元にあるのは19の戦訓のみである。

既に前回述べたようにパトロールを二隊と洗い出し丘に見張りを送ったのち、私はおよそ20分ほど掛けて、物資その他が整頓されている間に、19の戦訓に照らして守るべき位置を選定すべく歩き回った。

私の達した結論は丘の頂上付近にありながら、頂上自体に居ないのは意味が無いというものであった。私は洗い出し丘の頂上を陣地にすることにした、そこなら小銃射程内ではどこからも見下ろされることは無く、またそこなら私が思うに"瞰制(command)"がきくと思ったからである。瞰制の意味についてはさほど定かではなかったが、それが重要であることは知っていた。本でもそう書いてあったし、くわえて、私が参加した演習や読んだ戦術想定(tactical schemes)の全てにおいて、防御側は常に丘の頂上から尾根に陣地を占めていた。私の任務は平易であった。洗い出し丘のみが私の身に着けた19の戦訓に反しない唯一の場所であるように思われた。そして私は丘を歩き登った。頂上にあるカフィールの砦村の小屋の一つの脇に立つと、渡しと丘のふくらみのすぐ先までの渡しへの南方からの道がよく見渡せた。そして川の東西もはっきりと見れた。私は最初、数軒の草と敷物の小屋、空の灯油缶や骨やがらくたの山と一緒にカフィールの砦村を作っている小屋を破壊しようかと考えた。しかし熟慮の上、もっと巧妙にやることにした。この何の変哲も無いカフィールの砦村に我が防御を隠すのに一役担わせるのである。細部まで作戦計画をつめると丘の上に物資を全て運び、作業を開始した。

パトロールが捕虜を連れて戻ってくると、オランダ人と少年達は自身および女性のために掘るよう伝えられた。砦村のカフィールたちはただちに手伝わせていた。


地図6


私のとった措置は次のようなものであった。丘の頂上の小屋そば近くで全周に、10個ばかりの短いが深い射撃壕(firing trench)を掘る。配置は弧状をなし、各壕は5名を入れるだけの長さがあり、胸墻は大変低く実際には小銃托座(rifle rest)としてのみ機能する。掘り出された土を一部を塹壕の背面およそ1フィートかそこら(30.48cm)の高さに積み上げ、残りについては後ほど触れることに使った。大体において胸墻には地面の高さまで溝を入れ、塹壕両縁の胸墻の高さは頭部を守るに足るだけであった。兵の頭部が本当に目立たないような背景として、きちんとした銃眼を作るのは不要であった。銃眼を作るとなると新品の土嚢を用いるのが必要となり、これはかえって目立ち隠すのに骨が折れるためである。部下たちがこの塹壕から射撃するときは、彼らの頭部は地面の高さのすぐ上となる。射撃壕が順調に進むと連絡壕(the communication trence)に手を着けた。連絡壕は幅を狭くして深く作り、塹壕を隣同士で繋ぎ、かつ、各塹壕を小屋のうちの4軒と繋ぐものである。この4軒の小屋は以下のような措置を講じた。すなわち、中から見られぬまま兵が立って撃てるようにしたのである。小屋の内側の壁沿いに潤沢にある塹壕から掘り出した土を土嚢に詰めたもの、蟻塚のかけら、石、その他を人がその上越しに撃てる高さまで積み上げた。これはおよそ4フィート半(#137.16cm)であり、厚みは上端で2フィート半(#76.2cm)ほど。そして銃眼を小屋の壁にこの胸墻の上のところに切り開けたが、ほとんど見えないものであった。各小屋には三名が撃てるだけの空間ができた。全てで4つの小屋のうち3つには最高の射手(best shot)を入れ狙撃手とした、この配置は塹壕よりも射撃により好適であるからである。そして4つ目の小屋は私が自身の展望塔(conning-tower)として使うことにした。天幕と物資は全て小屋の中、見えないところに仕舞われた。

その晩、部下の間からかなり不平の出たきつい作業にもかかわらず、射撃壕は完成したものの、他は未完であった。必要な深さの半分までしかいってなかった。小屋の中の土盛りもまだまだ完成していなかった。カフィールとオランダ人は深穴を前回の夢と同じく掘ったが、今度は小屋のうち三軒の中にであった。塹壕に入る前最後に弾薬と糧食が配られた。また水瓶および水を溜められる容器全て、空瓶、カフィールの瓢箪、料理鍋に水を詰めて、戦闘が長引いたときに備えて配った。ボーア人が明日午前早々に現れたときに我が陣地を暴露しないよう最大限秘匿する必要について命令を出したのち、私は自信をもって眠った。我々はともかくも極めて良い陣地があり、連絡壕はまだ完全ではないが、明日午前時間があればほどなく改善できるだろう。

翌朝となった。敵は見えなかった。これは素晴らしいことだった、そして昼前に我々は懸命にとりくみ、終えていなかった作業を完成させた。この頃には部下達は事に熱意を持って取り組むようになっており、可能ならば我らが同胞ボーア人を奇襲したいと意気込んでいた。掘り方が進む一方、朝食のためディキシー(dixies)が4箇所の草の幕の下で煮立てられた。この草の幕は転がっていたのを見つけだし、陣地の上に極めて自然な煙以外は出ないようにするために用いた。私は下士官の中で最も賢い者一、二名を選んでそれぞれ別な方向へ丘を下ってゆき川岸から射撃壕の中の兵の頭部が空を背景に見えるところがあるか確かめるように指示した。もし空を背景に頭部が目立った場合は、土盛り、缶、骨、草、幕その他を置きかえて全員の頭部の背後が覆われるようにした。

全体を見渡すため、私は従卒(orderly)とともに川の北岸を半マイルほど先まで歩いていった。ある程度の距離を行くので我々はヘルメット(helmet)は脱ぎ、カフィールの淑女の客人から借りたオレンジと赤紫の縞の毛布に身を包めていった。これはさすらいのボーア人がこのあたりに潜み、草原をカーキ色が二人うろついているのを見れば興味をひきつける可能性を考えてである。毛布の下に小銃を隠すと歩きづらかった。そしてそれ以上に二分毎に振り返って陣地の見張りが敵が視界に入ったという信号を出していないか確かめる必要があった、これは一番高い小屋で棒を掲げることで知らせることになっていた。我々の仕事の成果は素晴らしかった。(#陣地の潜む)丘の上のカフィールの砦村をみると、我々の眼には単なる砦村にしか見えなかった。砦村の周囲にはがらくたが積み上げられているのが常であり、ごくごく自然に見えたし、(#塹壕から突き出る)頭部も見えなかったし、塹壕も見えなかった。唯一つ至らぬところがあった、それは無考えな者が我々の見ている間に軍の茶色の毛布を小屋の上や草原に広げて陽に当て始めたのである。全く見知らぬ者からみて、この四角の染み、砦村のあたり中にある茶色の四角い絆創膏(sticking-plaster)は何か常ならざるものとして注意をひきつけるだろう。手遅れとなる前にこれを正すべく私は急ぎ戻った。

朝食を済ませたのち、そして夜明けから大体三時間後、ある小屋の歩哨が北に部隊(force)を知らせてきた。我々にできるのはただ待ち望むのみであった。全ては整い、全員がなすべきことを知っていた。私が展望塔から笛を吹くまで頭を塹壕からもたげたり小銃を撃ったりしてはならない。笛とともに全員が立ち上がり射程内の敵に対し弾倉を空にするまで射撃する。砲撃を受けた場合、小屋の中の兵はただちに深い塹壕に入り、安全である。展望塔に立ち、渡しをみる狭間(loophole)にて今後の可能性について私は考えた。非常に幸運であればボーア人の斥候(scout)は我々の脇のどちからを通り過ぎ、敵本隊に備え我々は身を低くして待つことができよう。火蓋を切るまえに本隊をどれだけ近寄らせるべきか正確なところをみて、命令を下す瞬間に最適の地点を選ぼうと渡しと渡しから南へを正面とする射撃壕から小銃を構える高さからどう見えるかを知っておくため私は降りていった。非常にぞっとしたことには、射撃壕からは渡しも、川の此岸の道路は洗い出し丘からかなり南まで行ったところに至るまでが見えなかった! 洗い出し丘がなだらかに膨らんでいるためこれらが視界から隠されているのである。これが死角(dead ground)というものに相違なかった! そしてまさにその通りであった。敵を攻撃するのに最適のその地点、敵が必ず通過するところに射撃を向けられないのである! せいぜい、展望塔と別の一軒の小屋の北側銃眼だけが渡しに射撃をすることができるのみであった。どんなに己の愚鈍さを呪ったことか! しかし、呪っても何の役にも立たない。丘の下部で新たに塹壕を掘り始めることもできない、そうすれば我が陣地全体を暴露することとなろう。私は最大に生かすにはと考えを切り替え、敵斥候に発見されなかった場合は、敵本隊が川の対岸、前方の隊列が渡河するのを待って蝟集しているところに火蓋を切ることにした。その地点になら撃ちかけることができた。しかし、私が意図していたよりは遥かに射程が延びた。私がこの重大な欠点に気付けたのは本当に僥倖であった、さもなければ敵本隊の大部分が渡しを過ぎてからこの死角について気づいていたらば遅きに失したということになっていたであろう。また私が思ったのは、(大して慰めになるわけではないが)、私と同様の過ちをする者は大勢いるということであった。というのも幾度と無く騎馬で乗り付けてきた"お偉方(brass-hat)"が馬上の高みから、小銃が地面からわずかの高さにある塹壕の正しい位置を正すのを見てきたからである。しかし、それらの塹壕は実際に用いられるという試練を経はしなかった。私の失敗もこの伝であった。

その間、敵斥候は前回の夢と同様に進んできており、違いはインシデンタンバの農場を過ぎた後も不審げに停まることなく、しかし小さな集団あるいは塊となって近づいてきた。敵斥候は数箇所で川を渡り、藪だらけの川岸を極めて慎重に探り、しかし、まったく"カーキ色の兵隊(khakis)"は見つからず、明らかにそこから先の開けた草原にいるとは思ってもいず、ほとんど注意せずに前進した。いくつかの群れがまとまり、およそ30名ばかりの一団となって話しながら近づいてくる。敵斥候は砦村を調べるだろうか、それとも通り過ぎるだろうか? 私の心臓は高鳴った。
残念なことに我々の居る小さな丘は彼らをひきつけた。というのは南へ地平を見晴るかすのに有利な位置であり、北の本隊に信号を送るのにも好適であった。それに砦村は本隊が渡しにくるまでのちょっとの間、鞍から降りるのに良いところである、つまりおそらくは火が、それゆえ一杯の珈琲がありえるからである。敵斥候は疑うことなく砦村に向かって笑い、しゃべり、煙草を吸いつつ近寄ってきた。我々は全く音を立てなかった。わがオランダ人とカフィールの客人もまた音を立てなかった、なぜならば彼らの穴には小銃を携えた兵が居たからである。とうとう敵斥候は北東におよそ250m離れたところで停止した、そこは丘の傾斜がなだらかで上まで見渡せるのである。数名が馬を降り、残りはそのまままた我々目掛けて進み始めた。たいしたものではないが、これは戦争である。私は笛を吹いた。

敵斥候のうち馬を全速で駆けさせて逃れたのがおおよそ10名、また放れ馬(loose horse)も数頭あった。5,6名が手を上げて我々の陣地に歩いてきた。一帯には足掻く馬や死んだり呻いている人間が残された。東と西の敵斥候隊はただちに川へ馳せ戻り、そこで物陰で下馬して銃を撃ち浴びせてきた。ともあれ、我々は何ごとかなしたわけである。

眼前の敵が四散するや、われわれはおよそ1500m先の敵本隊に射撃を開始した。敵は直ちに停止し、散開した。我々はかなりの損害を与え、非常に混乱させたのは見るだに慰めとなった。敵本隊を率いるボーア人は河床が安全だと知ったに相違なく、極めて大胆な動きをした。彼は荷馬車全てその他を全速で400m余り河へ向かわせ、河床へ渡しから乗り入れた。そこなら我々の射撃から安全であった。この短い距離でも敵の損害は大きかったに相違ない。というのは荷馬車のうち二台が川への途中で放棄された。この敵の動きは川岸へ馳せ寄り、下馬し我々に向かって撃ち始めた多数の小銃手による射撃、および砲二門とポムポム砲一門の援護下でなされたものである。敵砲兵は直ちに短く戻って東西に別れていたのであった。これはかれがとりえる最善といってよかった、また仮に敵が我々が川の渡しから南側を撃てないと知っていたら、彼らはまっすぐに殺到してきた可能性もありえた。

ここまで我々は得点をあげてきた。しかし、いまや手詰まりとなった。我々は北の川岸と、ほぼ全周の蟻塚などから撃たれ、また断続的に砲二門が撃ってきた。敵は小屋をよい練習の的にして、ほどなく小屋は粉々となったがそれでも役目を果たしてくれた。小屋の内部から散らばった新品の白い土嚢が敵の視界に入り、それがどんなに素晴らしい的であるか、何度も砲撃を受けるので分かった。土嚢は実際の塹壕から多数の砲撃を逸らしたに違いなかった。ボーア人が渡しから南へ我が陣地から射撃を受けずに進めると気付くまでは、彼らを食い止めておくことが出来よう。

彼らは気付くだろうか? 彼らは我々の全周で馬を乗り回し、射程外のところでである、我々については全てを知り我々が孤立していることに気付いているに違いない。

夕方が過ぎると、その頃まで我が方では一名が戦死、二名が負傷していたが、敵の攻撃は、連続しているが漫然とした小銃射撃と時折砲が弾を寄越すだけとなった。暗闇に隠れて、渡しとそこから南の死角ににらみを利かせようとして、私は兵を塹壕から立たせてみた。しかし、数名の損害が出たため真夜中には塹壕に引き上げさせざるを得なかった。というにも明らかに敵が起きていて我々に猛烈な小銃射撃を一時間以上も放ってきたからである。このとき、敵の砲撃は不可解な変貌をしていた。最初は我々は北から極めて激しい砲撃を受けていた、北はずっと敵砲のいた方角である。それから突然、南西で一門が我々に向けて砲撃を開始した。それからしばらくの間我々は北と南西の双方から砲弾を食らった。そして少しして北の砲撃が止み、南西はわずか20分間しか続かなかった。南西の砲も止み、そして小銃射撃も次第に途絶えていった。

日が明けると生きている者は見当たらなかった。死者、死馬、打ち捨てられた荷馬車がみえた。私は罠を恐れたが、やがてボーア人は引き上げたという結論に達した。しばらく後、敵が川岸からも撤収しているのに気付いたが、敵は引き上げたのではなかった。彼らは我々の死角に気付き、砲の相互支援のもとで、我々を塹壕に釘付けにして渡しを越えて南へと進んでいったのである!

しかり、我々は捕らわれはしなかった、そして損害もごくわずかであった、かつ敵に手酷い損害を与えた、しかし彼らは渡しを越えたのである。敵にとっては前進し続けることが明らかに非常に重要であった、さもなければ彼らは我々を捕らえようとしたであろう、なんといっても我々が50名なのに比べて彼らは500名ほどであった。

私は任務に失敗した。

それから数時間、我々は死者を葬り、負傷者に手当てし、当然の報いとして休息をとり、私には我が失敗とその原因について考える十分な余暇が与えられた。この戦闘から私が得た戦訓は次の通りである。

20. なだらかな傾斜の丘と死角には気をつけよ。敵が通過せざるをえない地点を射撃下に置くよう留意すること。射撃壕は適切な位置をその壕を使う兵の視線の高さに自分の目を置いて定めること。

21. 丘はつまるところ、"瞰制"が効くとしても、必ずしも守るのに最適の場ではない。

22.目立つ"偽(bluff)"塹壕は敵に多くの塹壕を無駄遣いさせ、そして、本当の防御から敵砲火を遠ざけえる。

これらの戦訓に加えて、私が少々気がかりであったのは私の失敗について連隊長(colonel)がなんと言うかであった。

寝転び、空を見上げつつ、私は今後ありえる攻撃に備えて防御をさらに固め始める前に少々眠りをとろうとした。しかし、それも役立たなかった、眠りのほうで私を避けた。

澄んだ青い天穹に突如として雲がかかり、次第に大佐の渋面となっていった。"なんだと? 君が言わんとするのは、後知恵深慮君、ボーア人が渡しを越えたというのかね?" しかし私にとって幸いなことにさらに言葉を継ぐ前に大佐の顔は次第に消えていった、"不思議の国のアリス(Alice in Wonderland)"のチェシャ猫(the Cheshire puss)のように、ひどいしかめ面を空に残して。これも最後にはちりぢりとなってしまい、全体の光景が変わった。また私は新たな夢をみていた。

#以下投稿容量制限のため追記に
第六の夢(Sixth Dream)

"逆用するは甘美である"
"Sweet are the uses of adversity."


またしても私は愚者の渡しの防御という任務を綴るべく運命付けられていた。今回脳裏にあって助けとなるのは22の戦訓であり、夢の忘却がゆえに私は今では"心優しき読者"をとらえているであろう単調感から私は救われていた。

パトロールを送り出し、洗い出し丘に見張りを置くと、ここまでは既に描いたとおりであったが、そして物資が集められている間にも、私はどこに陣地を構えるかについて熟慮しつつ地形を伺わんと洗い出し丘の天辺まで歩いていった。頂上にはカフィール(南アフリカの獰猛なる黒人部族)の砦村を見つけた、これは丘で守るのに決めたらば隠蔽として大いに助けになるとわたしはみてとった。私はそうしたかったが、しかし数分間地形を試み、部下数名に下を歩かせ、私が地面からすぐ上の位置に眼を置いてみた結果、傾斜がなだらかすぎて、渡しと渡しから南への道を見、撃つには丘の頂上は捨てざるをえず、つまりカフィールの小屋という便利な隠蔽も使えず、どこから開けた丘の下部に陣地を取らざるを得ないということであった。これは勿論、大変見込みがあったが、とりわけ私が丘の頂上、小屋の東側と東南側にも陣地を持つことが出来ればである。しかし、我々を裸の丘斜面で隠蔽するのは不可能であろうし、それは奇襲するという考えを諦めることであるが、奇襲こそ私が望んでいたことである。そこで私は容易かつ良く隠蔽してくれるほかの場所、かつ渡しと渡しに繋がる道を近距離から小銃射撃に収める場をみつけねばならない。しかし、どこにそんな場所があるだろう?

このこんがらがった問題を考え深く思いにふけるうちに、ある着想が次第に心中にもたげてきた。私は直ちにその考えをほうりやったが、それは法外であり論外であったからである。その発想は渡しの両側の川岸と河床で守るというものであった! 瞰制という考えを捨て去り、そして付近の高地を求める替わりに、これは戦術の徒にとっては栗鼠が木へと駆け急ぐのと同じくらい自然な考えである、そのかわりに一番低い土地をとる、たとえそれが濃密な隠蔽があったとしても、極めて開けているかわりに。

それは、徹底的に革命的であり、私が読み聞きしてきたあらゆる教則(canon)に反している。明らかに酷使し悩まされた脳の迷いであろう。そんなことはけしてやらないし、そう私は堅く律するのであった。しかし、それが論外であると自身に論じるほど、この考えは私を捉えるのであった。私がそれが不可能だと言い募るほどに、それがさらなる誘惑を眼前に繰り広げ、この案の利点についての見かけは良い理由にわが良心の反論は絡め取られ窒息するのであった。

私は抵抗し、あがらい、しかしとうとう理性のもっともらしき衣を纏った誘惑に負けた。私は河床で守る。私がえんとしている利点は次の通りであった。

1. 視界からの完璧なる隠掩蔽

2. 実質的にすでにできあがっている塹壕と小銃および砲撃に対する防御

3. 良好なる掩蔽下の連絡

4. 敵は川岸沿いを除いて開けた草原にいることとなり、川岸では我々が先に陣地を占めているためなおも我々が有利である。

5. 潤沢な水の補給が手元にある。

然り、渡しの近くには動物の死体が幾つかあったし、空は澄んでおらず河床に重く垂れ込めていたが、死体は険しい河床にすぐ埋めてしまえるし、とどのつまり、あらゆる贅沢をのぞめるわけではない。


地図7


我々は射界(field of fire)を清掃した。射界は北は小銃の射程にのみ限られ、南は洗い出し丘に限られていた。洗い出し丘は敵が占領するに適した地点であるから、その河床のみならず丘の頂上も守ることを私は決心した。丘の頂上に割けるのは下士官2名と兵8名が全てであり、彼らは丘の南側を守れるであろう。丘の北側は河床からの我々の射撃下にある。

この隊を送り出した後、私は作業の指示を与え、すぐに開始した。二時間ほどしてパトロールが捕虜を連れて戻り、これまでの夢と同様に対処した。洗い出し丘の陣地については企図(scheme)としては塹壕は前回の夢で描いたのと同様に隠すが、川の我が主陣地(main position)からの小銃射撃に対して射線上に暴露しないよう大いに注意を払った。私は本隊の射撃が洗い出し丘の隊に当たるのではという懸念から一切妨げられないことを望んだ、特に夜間においてそうである。丘の隊に当たる可能性が無いのであれば、我々は自在に丘へ目掛けて撃つことができる。丘の隊(detachment)は水瓶を二倍持ち、砦村で集めた使える容器全ても加えて水を満たした。戦闘が長引くのを予期してのことであった。

主防御陣地(the main defensive position)の全体の着想は川の両岸を守り、急峻な川岸と谷を一名から四名を収容する小銃壕(rifle-pit)にすることである。これらはごく僅かの作業で、両側からの良好な掩蔽となる。既にかなりの仕事が我々のためになされ終わっているので、わが隊の実数で必要なよりも沢山の壕を掘ることが出来た。小銃壕間の通路は岸に掘り込まれ、陣地(position)から陣地への移動を可能とした。射撃する意図に応じて移動できる手段を与えてくれたことに加え、敵にわが実数について誤らせることができる可能性も生じた。移動戦術(shifting tactics)により、少なくともしばらくの間は、実数をかなり大きめに見させることがありえる。北および南への射撃壕はほとんど全てが壕内の人員が草原を地上高さで撃てるよう位置していた。射撃壕は茂みの間にうまく配置され、壕の位置を暴露せずに兵が全周を見渡せるように丁度十分なだけ枝葉を切ってあった。川両岸の渡しのすぐ傍に"排出された"土が盛りあがっていた。これは河への斜路から掘られた土であった。この土盛りは一帯からおよそ5フィートから6フィート(#152.4cmから182.88cm)で大体川岸と同様の険しさであった。この土盛りは壕を幾つか掘れるほどの大きさであり、これらの壕は高さの有利も備えていた。これらの壕の中には天蓋を備えるため、土嚢で銃眼を作ったものもあったが、大体の場合は藪が隠蔽するおかげで必要が無かった。私は全ての銃眼を自身で調べる必要があると気付き、構築の誤りを無数正したのだった。新品の綺麗な土嚢を完全に露出しているところがあり、これは壕の中にいる者にとっては単なる白の墓室に壕がなるということであったし、また別なのは極端に隠したがり(cock-shy)の外観で同様に目立っており、また別なのは弾を防ぐことが出来ず、さらに別なのは一方向にしか撃てず、或いは数メートル先の地面しか打てないものもあり、或いは青空にむけてしか撃てないのもあった。私はこれらの誤りを全て正し、監督抜きで作られた銃眼はむしろ罠となってしまうのではないかと思った。

結果は隠蔽の点では素晴らしいものとなった。これらの壕から我々の頭部を地上高にすると、藪の濃いめのところからであれ、眼のすぐ前の藪を通してすら草原を先までかなりはっきりと見ることが出来た。反対に開けた草原からは我々を見ることはほとんど出来ず、たとえ300m先からであってもである。そして仮に我々が(#ボーア人の)"同胞たち(brethren)"の頬髭を生やしていたらさらに近くからでも見えなかっただろう。この頬髯こそはまさにこの目的のための天の配剤であり、天然の普遍の防御擬態(protecitive mimicry)の一部であるのは私の目からは極めて明白である。

無数の小谷(small donga)と雨裂(rift)で側射(flanking fire)への備えはなっており、多くの場所では岸が垂直のため砲撃に対してすら理想的な防御が得られるため切り出す必要は無かった。その他の場所では湾曲した水路の側面を少々削るか、足場に棚を作るだけであった。

深めの谷のうちの一つに天幕を二張、地面高よりも下、極めて見えにくいところに女性子供のために立て、砲撃に備えて小さい洞穴を掘った。我が陣地は渡し両側の川岸それぞれ150mずつのところまで広がっており、その突端、攻撃が最もあると思われる地点では、川岸と乾いた河床を横断して壕を掘り込んだ。この壕も可能な限り隠蔽した。側面というか突端は勿論、最も危険なところである、というのも開けた草原からではなく突端から殺到されることを我々は予期していたのである。川岸に沿って(#陣地突端からの)"射界(field of fire)"を清掃するか私はしばし迷った。というのも我々の陣地のある両岸が不自然に裸であることで我々の存在を暴露することはさらさら望まなかったからである。私の最終的な決断は、そうなるのを防ぐため、陣地両端から射程内の茂みは地面高さより下は全て切り払う、そして地面高さでは川岸べりに連なるのを除いて切り払うこととした。この縁の茂みにより川岸が切り払われていることをごく近くに来るまで隠すのに十分だと考えたのである。私は切り払いの工具を残していってくれた者に感謝した。これら全てが行われる間、私は北と南へある程度の射程距離まで歩き、蟻塚の上に空き缶を置くなどして標識とした。

暗くなる頃には、ほとんど全ての壕は仕上がり、清掃も終わっているところもあった。天幕と装備は隠され、弾薬と糧食は全員に配分され、攻撃を受けた場合の命令も与えた。私は全ての場所に居られるわけではなかったから、私は離れたところの部下が私の意図を前もって完全に理解し、"自身で"行動することに頼らざるを得なかった。敵に至近距離から一斉射撃をする機会が逸り過ぎたあるいは過敏な者が長距離で火蓋を切るのを防ぐため、私はできるだけ射撃を抑え、どこから他で射撃が始まった後でなければ射撃してはならないと命令した(多少アイルランド人っぽく聞こえることは承知している)、或いは私の笛が鳴った後でなければである。これは敵があまりに接近しすぎて射撃封止(silence)が無意味となったときのためであった。ひとたび射撃が始まれば、全員が射程標識(range mark)により判断して射程内のあらゆる敵に猛烈に撃つこととなる。かくてやっと我々は些か満足しつつ夜を塹壕で過ごすために入り、8名毎に歩哨を立てた。

洗い出し丘から敵が知らせられるまでに大体3時間があった(予め定めておいた信号は小屋の一軒から棒を立てるというものだった) この時間は我が防御を様々な点で完璧とするのに用いられた。我々は乾いた河床と川岸の藪を両岸の陣地線からおよそ200m先まで茂みを払い終え、そして"障害"のきわみにまで仕上げた。つまり、この切り払われた地帯の先に部下が発見した鋼線(wire)で鹿砦鉄条網(abatis entanglement)を作ったのである。午前のうちに私は洗い出し丘の陣地を訪れ、全て正しいことを確かめ、その機会に河床の我が陣地の正確な限界を伝え、我々が行うことを説明した。

三時間ほどの作業後、"何者か視界に入る"の信号がでて、ほどなくして陣地からも北に塵埃が立つのが見えた。この部隊は、ボーア人コマンドーであることが分かった。前回の夢で記述したのと同様で接近してきた。我々がその間できることはじっと隠蔽の中で座っていることのみであった。敵斥候は正面およそ1マイル(#1.609km)に広がり二、三名の塊に分かれて来た。敵の斥候の列中央は渡しを目指していた。斥候は近づくにつれて、最も容易なところで渡ろうという自然の本能に従い、渡しへ向かう群れへと両脇から二つ、三つの隊が内側へと向かい、合流していった。これは我々が奇襲するのを望めるものとしては最大の大きさであるのは明らかであり、我々はこの群れに銃を向けた。およそ300mのところで、"同胞"はなにか不審げに停止した。これは東側の部下たちのうち数名にとっては限界を超えており、銃を放ったのである。かくて我々は弾倉を空にするまで撃ち大気は銃声で切り裂かれ、この渡しに向かっていた敵斥候の群れの5名と両脇の群れの2名を殺害した。敵斥候が馳せ戻る間も撃ち続けてさらに2名を落馬させ、さらに1マイル(#1.609km)ほど先の隊列にも撃ち掛けた。敵本隊は散開するまでの間、素晴らしい標的となった。

すぐさま、我々の陣地は砲三門による砲撃を受けたが、その効果はわずかであり、我々にとっては一名が榴弾により負傷したのみであった。しかし、砲撃はゆっくりと暗くなるまで続いた。正確を期すならば、砲撃を受けたのは川であり、我々の陣地は偶然に撃たれただけである。なぜならば砲弾は川に沿いにおよそ半マイル(#804.5m)ほどの一帯で炸裂していたからである。ボーア人は明らかに我が陣地の規模および強度について皆目見当がついておらず、砲弾を多数無駄にした。東と西に馳せていく隊に我々は気付いた。射程外であり、これらの隊はある程度の距離の先で川へと攻撃し、次第に河床を進んでいき夜間のうちに至近距離(close range)に入るつもりなのだと我々は推量した。

夜間、河床で射撃を数度応酬したが、両陣営ともたいしたことはしなかったものの、常時警戒していた。洗い出し丘が出番(inning)を得たのは午前1時近くになってからだった。私が望んでいた通り、我々が砦村を守っていることを敵は察知しておらず、川にいる我々に撃ちかけようと大勢の敵が丘の南側を這い登ってきた。そして我が分遣隊(detachment)からの近距離一斉射撃で泡を食ったのであった。夜はさほど暗くなかったので、最初の斉射に続いて隊は(私は後に知ったことであったが)立ち上がって驚愕した敵の奴らが丘を駆け下るのを撃つことができた。しかし敵の恐慌は長くは続かず、音から判断すると、わがリー・メトフォード小銃からの最初の一斉射撃と続く数分の各個射撃に続いて、我が小銃の音にすぐによりくぐもったモーゼル小銃の音が入り混じるようになった。そして程なく洗い出し丘の我々の側で閃光が見られた。我が部下であるはずは無かったから、敵が分遣隊を囲もうと企てているということが分かったわけである。我々は射程をかなり良く分かっていたから、また見ることはできなかったので射撃はむしろ当て推量であったが、丘斜面で閃光がみえるたびに小銃三、四丁で小斉射することで敵のこの機動を止めた。かくて夜はたいした出来事も無く過ぎていった。

暗いうちに、機会をとらえて新品の布土嚢(shite sandbags)(物資の中にあるのを見つけておいた)を本当の塹壕および壕から少々離れた丸見えのところに狡知を効かせて置いておいた。中にはさらに凝ってヘルメットとコート(coat)を上端から覗いているように加えた。この策略は存在を暴露しないよう、我が陣地が発見されるまで先延ばしにしていたのだが、戦闘が開始した後であれば行っても一切害は無い。翌朝、"同胞"の極めて正確な射撃がこれらの土嚢に加えられ、小さく埃が立つので分かるのは極めて楽しかった。

この日、北および南の草原は射程外を除いて敵は無人にしていたが、川岸両側に対して絶え間なく狙撃があった。ボーア人の砲は、一門がインシデンタンバの頂上へ、一門が東および西へ川岸を縦射しようと移動したが、我々の掩蔽は良好であったため、戦死二名、負傷三名で免れた。敵は川沿いに長い部分に対して砲撃することは無かった。私は夜には川岸沿いに攻撃があると確信し、北岸を危険なほど薄くする危険を冒して側面を少々強化した。私の期待は失望させられることはなかった。

暗闇に身を隠して、敵は北側に開けた草原と洗い出し丘の南端からおそらく600mほどまで迫り、猛烈な射撃を続けた。おそらくは我々の注意をそらすためであろう、そして砲も一時間ほど砲弾を降らせ続けた。砲撃が止むと即座に敵は東および西の河床を殺到して来た、しかし、鹿砦と地面の穴のおかげで、またそれほど暗い晩では無かったため、彼らは成功しなかった。しかし、ぎりぎりであり、ボーア人が数名陣地に入り込むのに成功したが銃剣で刺されただけに終わった。幸運なことには敵は我が戦力、むしろ弱点を知っておらず、さもなければこの試みを続けて成功していたことだろう。敵の戦死および負傷は20名か30名程度に違いなかった。

翌朝、当初の部下40名のうち余りにも多くが行動不能となり(これは洗い出し丘の部下を含めない、そちらでの損害は不明であった)、事態は切迫しており、私はもう一晩で我々はおしまいとなると非常に恐れていた。洗い出し丘の隊が旗印を高く掲げ、つまり墻頭に赤布を上げたのを私は嬉しく眺めた。然り、これは国旗ではないが、おそらくは単なる手巾に過ぎないであろうが、白ではなかったのである。日は時折の砲撃に狙撃で過ぎていき、敵は我々の弱点を推量して再度の夜間攻撃に備えて節用し、我々が疲弊しきるをあてにしていると感じた。我々は日中に交代で少しでも眠り、私はわが小部隊の意気をあげようと手を尽くし、救援はさほど遠くは無いと話した。しかし、陰鬱な絶望の中、日は過ぎてゆき午前から午後へと進んでいった。

ボーア人の砲は2時間ほど撃っておらず、沈黙が苛立たしくも不思議にも感じられ始めたとき、遠くでの砲声が我々を興奮の極致へと引き込んだ。我々は助かったのだ! 砲声が何であるかは、英軍かボーア人かは分からなかったが、いずれにせよ、別の部隊が近在にいることを示していた。全員の顔が明るくなり、この歓迎すべき音で焦燥感は追いやられた。

新手の部隊が我々の存在を見落とさぬよう、私は数名を集めて直ちに昔懐かしい英軍の一斉射撃"構え 狙え 撃て!!"(ready--present--fire)を藪に向かって始めた、これは聞き誤りようがなかった。しばらくして我々は遠くに銃声をきき、北東に砂塵があがるのがみえた。我々は救われた!

我々の損害は総計で戦死11名、戦傷15名であった。しかし我々は渡しを保持し、勝利を勝ち得えられるようにしたのである。愚者の渡しを保持したことでの名高い大きな結果についてはここで触れるまでも無いが、ボーア人の砲、弾薬、増援が敵の極めて圧迫を受けていた部隊に死命的時機に到着するのを阻んだことで我が方の勝利を確実としたのである。今では無論のこと、これが戦争における転回点となったのは周知となっている。しかし、我々はつつましき道具であり、我々の行動にいかに死命を制する結果がよっていたかなど知らなかった。

その晩、救援部隊が渡しに留まり、死者をほうむった後、少々時を費やして、ボーア人狙撃手を調べ、部下は砲弾や空薬莢を記念のよすがに集めたがただちに捨て去った。25名ほどがボーア人の遺体を発見した。中には部分的に埋もれているものもあった、これらについて我々は埋葬した。

その晩、私は行軍するかわりに(自分のズボンとベストを着て)身を横たえた。大佐が贈ってくれた"恩賞の煙草(prime segar)"の煙が頭上に渦を巻いていき、次第にばら色の栄光の雲へと変わってゆき、そして遠くからは慣れしたんだ曲、"征服せる英雄が来る(See the Conquering Hero comes)"を楽隊(brass bands)が演奏するのが聞こえていた。そう私の耳には聞こえた。

肩を叩かれるのを感じ、穏やかな声がこう言った、"起きてください、後知恵深慮殿"、そして瞬間、栄達の夢は消えうせ、穏やかな声は馴染んだ従卒のしゃがれ声へと変わった。"一式、荷馬車に積んでください、上官殿。珈琲(corfy)も淹れてだいぶだっています、上官殿" 私はひどい臭いの夢村に未だにいるのであった。
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