SBCT関係論文翻訳
1999年10月AUSAの昼食会にて時の米陸軍参謀長エリック=シンセキ大将は演説を行った。陸軍の変革・再編・革新の道程標となる出来事であった。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
メルカバ戦車の父、イスラエル・タル少将亡くなる
以下、イスラエル三紙(Ynot, JP, Haaretz)をもとに経歴 多少食い違うところあり

1924年生まれ(Ynot)

Beer Tuviにて育つ(JP)

18歳 英軍に入隊(Ynot)
第二次世界大戦 ユダヤ旅団の一員としてイタリア戦線に従軍(Ynot)
1946年 ハガナに加わる(Ynot)
1948年の独立戦争 エルサレムに通じる道路で一連の戦闘に参加 Nachshon作戦ではGivati旅団で小隊を指揮(Ynot)

その後、イスラエル国防軍内で昇進

#1964年から69年まで、第7代機甲軍団司令官(JP)

1960年代、水資源戦争時に機甲軍団司令官(Haaretz)

1967年 第三次中東戦争で第84機甲師団を指揮し、シナイ半島をガザ地区からスエズ運河北部まで占領(Ynot)
長射程の戦車砲術による戦術に熟達していたことがスエズ運河への突破の鍵となる(JP)

退役

1970年 イスラエル政府は自国で戦車を開発することを決定、長として開発にあたる(Ynot)
また、第四次中東戦争でスエズ運河渡河に使われた架橋装備の開発にもあたった(Ynot)

#参考 ローラーを算木状に並べた陸上牽引可能な移動架橋
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Glilim_bridge_3-Latrun.JPG

1972年 復役し軍作戦部長および副参謀総長(JP)

第四次中東戦争中、南方総司令官(JP)

第四次中東戦争後、復役し南方総司令官、副参謀長(Ynot) 

同戦争終結後、モシェ・ダヤン国防相とエラザル参謀総長がエジプト軍を攻撃することを命じたがゴルダメイヤ首相と最高裁から受けた権限を盾に拒絶(Haaretz)
・Agarnat委員会の調査でエラザル参謀総長退任後に継ぐ目が絶たれたとされる(Haaretz)

1974年 再度、退役(Ynot)

ペレス国防相の顧問(Ynot)
ペレス国防相に指名され副国防相(Haaretz)
・ワイズマン国防相時代に復役したときも副国防相にとどまる(Haaretz)

1978年、再度、復役し軍再編計画をとりまとめ、地上軍中央司令部が創設される(Ynot)
・二代の参謀総長(モルデハイ・グル、ラファエル・エイタン)の反対にあう
両参謀総長は司令部が創設された場合、イスラエル・タルが参謀総長に就任すると懸念(Haaretz)

その後、Moshe Arena国防相は縮小した案を採用、後に再編されthe GOC Army Headquartersとなる

1999年、第四次中東戦争を巡りDoron Almog少将と論争し、発作(Haaretz)

リハビリで健康回復するも、数ヶ月前から悪化(Haaretz)

2010年9月8日 Rehovotの自宅で亡くなる(Ynot)、Kaplan Hospitalにて亡くなる(JP)
86歳の誕生日を1週間後に控えて亡くなる(Haaretz)

葬儀は9月12日、Rehovotにて午後4時から 軍葬となる(Ynot) 

遺族は妻Hagit、子息Yair(JP)
・遺族は妻、子息、息女、孫(Haaretz)

米国フォートノックスのパットン騎兵及び機甲博物館では
Moshe Peled、パットン、クレイトン・エイブラムス、エルウィン・ロンメルと並んで偉大な機甲指揮官として顕彰されている

#参考 Moshe Peledはイスラエル・タルと同じく第四次中東戦争時のイスラエル国防軍機甲司令官
ゴラン高原正面で指揮
http://www.generalpatton.org/Patton_Saber/PattonSaber_Spring03.htm


スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2005 SBCT関係論文翻訳 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。